『修身教授録』(3)

◎成就(P.298)
世の中のことというものは、真実に心に願うことは、もしそれが単なる私心に基づくものでない以上、必ずやいつかは、何らかの形で成就せられるものであります。

◎死後にも生きる精神(P.306)
人間がその死後にも生きる精神とは、結局はその人の生前における真実心そのものだということです。すなわち、その人の生前における真実の深さに比例して、その人の精神は死後にも残るわけです。

◎人生の真のスタート(P.306)
かくして人生の真のスタートは、何よりもまずこの「人生二度なし」という真理を、その人がいかに深く痛感するかということから、始まると言ってよいでしょう。

◎遺伝(P.331)
遺伝は一体どうして生じたかと、さらにさかのぼって考えてみれば、やはりそれは、祖先代々の修養の集積と言う外ないでしょう。

◎気品(P.334)
将来教育者として立つ人には、気品こそ、最も力強い教育的感化の源泉と言うべきでしょう。

◎魂(P.338)
真に大きく成長してやまない魂というものは、たとえ幾つになろうと、どこかに一脈純情な素朴さを失わないものです。

◎哲学(P.338)
真の哲学の世界は、実に果てしも知れぬ深くして、かつ大いなる感動の世界でなければならぬからです。

◎生命(P.345)
私達は、外面的な生命の長からんことを求めるよりも、人生を生きることの深からんことを求めるべきでしょう。畢竟するにそれは、真実に徹して生きることの深さを言う外ないでしょう。もし真実に徹して生きることが、真にその深さを得たならば、たとえ20代の若さで亡くなったとしても、必ずしもこれを短しとはしないでしょう。

◎堅実な道(P.352)
毎日よくやっていると、たとえその人の素質は、それほどなくても、堅実な道が開かれます。そこで教師としては、どうしても才能と勤勉、まじめと見識という両方面を知らねばならぬのです。

◎読書(P.358)
読書ということは、われわれの修養の上では、比較的たやすい方法だと思うのです。したがってそれさえできないような人間ではてんで問題にならないわけです。つまり真の修養というものは、単に本を読んだだけでできるものではなくて、書物で読んだところを、わが身に実行して初めて真の修養となるのです。それゆえ書物さえ読まないようでは、まったく一歩も踏み出さないのと同じで、それでは全然問題にならないのです。

◎心(P.359)
心が生きているか死んでいるかは、何よりも心の食物としての読書を欲するか否かによって、知ることができるのです。

◎伝記(P.360)
優れた伝記の書物というものは、いかなる種類の人間も読むべきだと言えましょう。また人生のいかなる時期においても読むべきです。

◎志(P.360)
人間は12,3歳から17,8歳にかけては、まさに生涯の志を立てるべき時期です。すなわち一生の方向を定め、しかもその方向に向かっていかに進むべきかという、腰の構えを決めるべき時期です。しかもこの時期において、最も大なる力と光になるものは、言うまでもなく偉人の足跡をしるした伝記であります。

◎発願のための読書(P.362)
人間は、35,6から40前後にかけて、もう一度深く伝記を読まねばならぬことに気付き出したのです。それは何故かと言うに、人間はその年頃になったら、自分の後半生を、どこに向かって捧ぐべきかという問題を、改めて深く考え直さねばならぬからであります。

◎良寛戒語(P.378-383)

◎やり抜く(P.385)
最後までやり抜くということです。人間が偉いか偉くないかは、これで岐れるのです。

◎自修の人(P.402)
自己を築くのは自己以外にない。

◎掃除当番(P.421)
たとえば掃除当番の場合などでも、友人たちが皆いい加減にして帰ってしまった後を、ただ一人居残って、その後始末をするというようなところに、人は初めて真に自己を鍛えることができるのです。それが他から課せられたのではなく、自ら進んでこれをやる時、そこには言い知れぬ力が内に湧いてくるものです。そこでこうした心がけというものは、だれ一人見るものはなくても、それが5年、10年と続けられていくと、やがてその人の中に、まごうことなき人間的な光が身につき出すのです。

◎ほんとうの真実(P.421)
ほんとうの真実というものは、必ずいつかは輝きだすものだと思うのです。

◎生徒時代(P.424)
そもそも生徒時代というものは、ほんとうの欲はないものです。というのもそれは、その生活態度が受身の状態にあって、真の責任の地位に置かれていないからです。

◎卒業後の勉強(P.424)
卒業後の勉強となると、現実生活をふまえた上での勉強ですから、たとえその量は少なくても、その実のなり方が違うわけです。そもそも学校教育というものは、これを植物にたとえますと、いわば温室育ちというところがある。しかるに卒業後の忙しい現実生活において、仕事のさ中に勉強するということは、いわば風雪に鍛えられていく樹木のようなもので、そこには何とも言えない一種の趣を持ってくるわけです。

◎教師の三段階(P.425)
教師というものにも大体三段階がある。在校中からすでに生徒の信頼のない教師、これは下の教師である。次は学校にいる間は生徒の信用する教師、これは中の教師である。上の教師というのは、もちろん在校中も、生徒につまらないなどとは見えないが、しかしその真価は、在学中の生徒には十分分からぬもので、卒業後自分たちが現実の人生にぶつかるようになって、初めてその真価が分かり出し、しかも年と共に、しだいにその値打が分かってくるという人である。

◎真の修業(P.426)
真の修業とは、自己に与えられた生命の限りを、どこまでも生かそうとすることです。

◎根本の態度(P.431)
何事にてもあれ、大切なるは根本の態度なり。弓道の学習は的中よりも姿勢を尚ぶ。

◎神とは(P.434)
神とは、この大宇宙をその内容とする根本的な統一力であり、宇宙に内在している根本的な生命力である。そしてそのような宇宙の根本的な統一力を、人格的に考えた時、これを神と呼ぶわけです。

かく考えたならば、わが身にふりかかる一切の出来事は、実はこの大宇宙の秩序が、そのように運行するが故に、ここにそのようにわれに対しても起きるのである。かくしてわが身にふりかかる一切の出来事は、その一つひとつが、神の思召であるという宗教的な言い現し方をしても、何ら差し支えないわけです。

すなわち、いやしくもわが身の上に起こる事柄は、そのすべてが、この私にとって絶対必然であると共に、またこの私にとっては、最善なはずだというわけです。

それ故われわれは、それに対して一切これを拒まず、一切これを却けず、素直にその一切を受け入れて、そこに隠されている神の意志を読み取らねばならぬわけです。したがってそれはまた、自己に与えられた全運命を感謝して受け取って、天を恨まず人を咎めず、否、恨んだり咎めないばかりか、楽天知命、すなわち天命を信ずるが故に、天命を楽しむという境涯です。

◎順調(P.436)
人間は、順調ということは、表面上からはいかにも結構なようですが、実はそれだけ人間が、お目出たくなりつつあるわけです。

◎プラスとマイナス(P.437)
要は人生の事すべてプラスがあれば必ず裏にはマイナスがあり、表にマイナスが出れば、裏はプラスがあるというわけです。

◎自分の真実の姿(P.441)
自分の真実の姿を求めるようになるには、まず道を知るということと、次には苦労するという、この2つのことが大切だと思うのです。

◎苦労(P.443)
同じく苦労しながらも、その人の平生の心がけのいかんによって、そこにはまったく相反する結果が現れるということです。すなわち一方には、苦労したために人間の甘さとお目出たさはなくなったが、同時にそのために冷たい人間となり、えぐい人間となる場合と、今一つは、苦労したために、かえって他人の不幸に対しても、心から同情できるような心の柔かさや、うるおいの出る場合とです。そしてそれは結局、平素真の教えを聞いているか否かによって、分かれると言えましょう。

◎人間の偉さ(P.463)
人間の偉さというものは、ある意味では働くこと多くして、しかもその受けるところが少ない所から生まれてくるとも言えましょう。

◎教科書(P.464)
自らの教科書を編集し得る力あるにあらざれば、授業は真に徹底せず。借り物で相手を鍛えようとは虫のよき話なり。かくして教科書を持ちながら、如何にしてこれをわが編集の書とするかが、教師に課せられた最大の公案というべし。

◎教科間の障壁(P.464)
一人で全教科を担当する小学校にあっては、各教科間の障壁を除去し得る教師ほど、真の実力ある教師なり。教科間の障壁を除き得るは、その人が現実を把握しているの証なり。

◎学校の成績(P.467)
たしかに学校の成績というようなものは、その人の実力を、そのまま示すものではないとも言えましょう。しかしその人の忠実さ、その人の努力、さらに申せば、その人がいかほどまで、自分のなすべき当面の仕事をなし得る人間か否かということは、かなりな程度まで、これを示すと言ってよいようです。

ですから私は、学校の成績というものは世間でふつうに考えているように、必ずしもその人の素質を確実に窺い得るものとは思いません。それよりもむしろ、その人の素質と努力との相乗積を示す考えた方がよかろうと思うのです。

そこでこのことからして、素質としてはかなり優秀でありながら、試験を軽蔑しているために悪い成績をとる人が少なくないわけです。つまりそういう人は、試験は人間の才能をそのまま示すものでない、という一面のみにこだわって、試験がその人の努力と誠実さを示すものだという、他のより大事な一面を看過しているわけです。これすなわち、なまじいなる才知がかえって自らつまずくというものです。

◎素質(P.469)
単に自分の素質をたのんで、全力を挙げて自分が現在当面している仕事に没頭することのできない人は、仮にその素質はいかに優秀であろうとも、ついに世間から見捨てられてついには朽ち果てるの外ないでしょう。

かくして人が真に自分を鍛え上げるには、現在自分の当面している仕事に対して、その仕事の価値いかんを問わず、とにかく全力を挙げてこれにあたり、一気にこれを仕上げるという態度が大切です。

以上の事柄に関連して、もう一つ平生私の痛感していることがあります。それは私が現在、学生時代を顧みるに、学生時代に自分の素質をたのんで試験をおろそかにした人は、その後の歩みを見るにいずれも芳しくないようです。つまり素質としてはよくても、結局世間に出てから、大したこともせずに終わろうとしています。

今専攻科にいつ一人の人で、名前はちょっと差し控えますが、これとは別の例もあります。というのもその人は、1年生から3年生頃までは、50人中30番前後にいた人です。ところが4年の3学期に、ふとしたことから、「学校というところは、試験の成績で生徒の価値を判定するところである」と悟って、それから俄然として目を覚まし、それ以来試験に対しては全力を挙げてあたるようになったのです。そこで成績もめきめきと上がって、今では専攻科生80人中の2番になっています。そこで先生方のその君に対する見方も一変して来ているのです。学校でさえすでにこのようです。いわんや社会においてをやです。

獅子はいかに小さな兎を殺す場合でも、常に全力を挙げてこれを打つと言われています。ですから諸君たちも一つこの3学期には、クラスの全体を挙げて成績を高めるがよいでしょう。これ一つできないようでは、平素何を言ってみたとて駄目なことです。

◎真面目(P.472)
真面目という字を、真という字の次に、「の」の字を一つ加えてみたらどんなものでしょう。そうしますと、言うまでもなく「真の面目」と読まねばならぬことになります。すなわち真面目ということの真の意味は、自分の「真の面目」を発揮するということなんです。

◎百二十点主義に立つ(P.474)
常に自己の力をありったけ出して、もうひと伸(お)し、もうひと伸しと努力を積み上げていくんです。そこで真面目とは、その努力において、常に「百二十点主義」に立つということです。

◎時間(P.476)
人間は、人生に対する根本の覚悟さえ決まっていれば、わずかな時間も利用できるようになるものです。

◎礼(P.477)
私は教育において、一番大事なものとなるものは、礼ではないかと考えているものです。

◎敬(P.483)
礼の本質としての「敬」の問題についてお話しましょう。

◎最も大事な事柄(P.485)
諸君らが、将来教師となって最も大事な事柄は、まず教師自身が、礼を正しくするということです。次には内面的な道としては、教師自身が、生徒から敬われるだけの人間になるということでしょう。

◎精神(P.501)
武道や運動をやっている人は、単に技を磨いただけではいけないのです。一つの技で磨いた精神が、その人の生活のあらゆる方面に発揮されなくちゃいけないです。

◎階段(P.502)
諸君は階段を昇るとき、まるで廊下でも歩くように、さらさらと登る工夫をしてごらんなさい。というのも人間の生命力の強さは、ある意味ではそうしたことによっても、養われると言えるからです。

◎短い時間をむだにしない(P.503)
一日の予定も完了しないで、明日に残して寝るということは、畢竟人生の最後においても、多くの思いを残して死ぬということです。つまりそういうことを一生続けていたんでは、真の大往生はできないわけです。では、今日一日の仕事を、予定通りに仕上げるには、一体どうしたらよいでしょうか。それにはまず、短い時間をむだにしないということでしょう。

それについて私の感心したのは、昨日、専攻科のある生徒が電話で友人を呼んで、友人の来るまで控室で待つことを打ち合わせたというのです。ところが、私がフト入ってみると、すでに5時をすぎた火の気のない控室で、盛んにせっせとものを書いているんです。ついでですが、その生徒というのは、病気のために一学期間休学していた人なんです。

私はそれを見て「この寒い部屋で、今頃何をしているんです」と尋ねますと、「15日に提出する国語の課題をやっています」という返事でした。15日なら、まだ5日も間があるのに、それをその寒い部屋で、しかも病後の身で、おまけに今にも来るかも知れない友人を待ち合わせながら、夕闇のしのび寄っている中で、せっせとやっているのを見て私は、「もしこの人がこの心がけを一生忘れなかったら、必ずや一かどの人物になるに違いない」と思ったことでした。

『森信三 修身教授録』(致知出版社)