『啓発録』

◎志を立つ(P.34)
志を立てるというのは、自分の心の向かい赴(おもむ)くところをしっかりと決定し、一度こうと決心したからには真直(まっすぐ)にその方向を目指して、絶えずその決心を失わぬよう努力することである。ところで、この志というものは、書物を読んだところによって、大いに悟るところがあるとか、先生や友人の教えによるとか、自身が困難や苦悩にぶつかったり、発憤(はっぷん)して奮い立ったりして、そこから立ち定まるものである。

従って、呑気(のんき)で安楽に日を送り、心がたるんでいる状態では、とても立つものではない。志の立ち定まっていない者は、魂のない虫けらと同じで、いつまでたっても少しの向上もないが、一度志が立って目標が定まると、それからは日に日に努力を重ね成長を続けるもので、まるで芽を出した草に肥料のきいた土を与えたようになる。

昔から学問・徳義(とくぎ)が衆人にすぐれていたとされる偉人でも、目が四つあり口が二つあった訳ではなく、その志が大きく逞(たくま)しかったから、ついに天下に知らぬ人もないような名声を得るに至ったのである。世の中の人の多くが、何事もなし得ずに生涯を終わるのは、その志が大きく逞(たくま)しくないためである。

志を立てた人は、ちょうど江戸へ旅立つことを決心した人のようで、朝福井城下を出発すれば、その夜は今庄(いまじょう)、翌晩は木の本(きのもと)の宿場というように、だんだん目的地に向かって進んで行く。旅人が目的地とする江戸は、志を立てた者が目標とする聖賢豪傑(せいけんごうけつ)の地位にあたる。今日聖賢豪傑になろうと志を立てたなら、明日あさってと次第に自分の聖賢豪傑らしからぬ部分を取り去っていく。そうすれば、どんなに才能が足らず、学識のとぼしい者でも、最後には聖賢豪傑の地位に到達できるはずである。それはちょうど、どんな足の弱い旅人でも、一度江戸行きを決意し出発したなら、最後には江戸に到着するのと同じことである。

さて、右のような志を立てる上で注意すべきことは、目標に到達するまでの道筋を多くしないことである。自分の心を一筋に決めて、守りやすくしておくことが大切である。とかく少年の間は、他の人のすることに目が散り心が迷うもので、人が詩を作れば自分も詩を、文章を書けば文章をといった具合になりがちである。武芸でいっても、友人が槍(やり)の修行に精を出しはじめると、自分が今日まで修行してきた剣術を中断して、槍術(そうじゅつ)を習いたくなるものであって、このように心を迷わすのは、志を遂げられぬ第一の原因となる。

それゆえ、物事を分別する力が少しでもついてきたら、まず自分自身で将来の目標と、それを達成するための方法を、しっかりと考え定め、その上で先生の意見を聞いたり友人に相談するなどして、自分の力の及ばぬ部分を補い、そうして決定したところを一筋に心に刻み込んで、行動を起こさねばならない。必ず、学ぼうとすることが多岐にわたり過ぎてそのために目標を見失うことのないように、注意したいものである。

すべて、心が迷うということは、心の中にしようと思う筋道が多すぎることから生ずるものであって、従って心が迷い乱れるのは、まだ志が確立されていない証拠といえる。志が不確定で、心も迷い乱れては、とても聖賢豪傑になれるものではない。

とにかく、志を立てる近道は、聖賢の教えや歴史の書物を読んで、その中から深く心に感じた部分を書き抜いて壁に貼りつけておくとか、常用の扇などに認(したた)めておくとかし、いつもそれをながめて自己を省みて、自分の足らぬところを努力し、そして自分の前進するのを楽しみとすることが大切である。また、志が立った後でも、学問に励むことを怠れば、志が一層太く逞(たくま)しくならずに、ともすれば、かえって以前の聡明さや道徳心が減少し、失われてゆくものであるから、注意しなければならない。

◎(P.49)
以上の(啓発録)5項目「稚心(ちしん)を去る」「気を振(ふる)ふ」「志を立つ」「学に勉(つと)む」「交友を択(えら)ぶ」は、少年が学問に志す場合、まず確立せねばならない重要な問題と考え、書きつらねたものである。

◎(P.70)
「人間自(おのず)から適用の士有り 天下何ぞ為すべきの時無からん」
→この世の中には、必ずそれぞれの職務に適性をもった人がいるもので、一見非才非力で役に立たぬように思えても、きっとどこかに最適の任務があるものである。男子たるもの、天下に自分が活躍せねばならぬ機会がないなどということがあろうか。活眼があれば必ず見いだせるものである。

◎国是(P.88)
国是というものは、祖先が国家を創設された時、すでにでき上がっていたもので、後代(こうだい)の子孫としては、その弊害を正してゆけば宜しいものであります。子孫の時代になってから、ことさらに国是を作成するということは、その例も道理もありません。

国家を創建された先祖にしても、特に深い智慧をはたらかせ、思慮を重ねて考え出されたものではなく、ただ天地自然の道理に基づかれ、時勢や人情をよくお汲み取りになり、人々がこぞって志すところを考え合わされて、これを立てられたものであります。

元来、我が国は外国と違って、革命という乱れた習わし、悪い風俗がないのでありますから、現在に至っても、直ちに神武天皇がこの国をお始めになられた際、子孫将来のために定められ、お遺しになられたところのものを、謹んで守られ維持されて、一向に差し支えのないことと存じ上げます。但し、右に申し上げました通り、時代の移り変わりというものがございますから、神武天皇の御心に則るということが重要なのであって、実際に作成する制度については、いささかなりとも、時勢の変化に合わせた変更や補正がなくてはなりません。

しからば、神武天皇が子孫将来のため定められ遺されたものは何かといいますと、それは、人は忠義を重んじねばならない、士(さむらい)は武道を尚(とうと)ばねばならないという二ヵ条に尽きるのでありまして、これこそ我が日本の国是であります。

神武天皇の遺されたものは、この「尚武重忠(しょうぶじゅうちゅう)」の四文字に限るといって間違いありません。第一に武道を重んじ給うたことは、御諡号(ごしごう)を神武天皇と尊称し奉ることからも、明らかでございます。また、御歴代「草薙の御剣(みつるぎ)」を御相伝(そうでん)されております。この点からも、その尚武の思召(おぼしめし)が、ますます明らかに理解できるのであります。

◎学校(P.95)
学校は政治の根本であり、人を教化する上で最も基本となる重要な所であります。

◎(P.97)
わたくしは自己の本心を曲げてまで利のある方に同調したり、重臣方の御機嫌をとり調子を合わせるような職務は、どなたからも命ぜられておりません。わたくしは目前の御用に役立つようなことは好きではありませず、ここ十年ばかりの間は、じっくりと諸種の学問を研究し、世の中の変遷推移を見定めて才識を練り上げ、少しは物事も分かるようになった上で、それまでの御恩遇(ごおんぐう)に一挙に報いたいものと存じております。

◎日本の尊厳(P.113)
我が日本の尊厳は、世界に比較しうる国がありません。天皇の御位(みくらい)は、神代(かみよ)以来連綿として絶えることなく、国民もまた、すべて神々の御血筋をいただいております。風俗はすなおで美しく、武士は忠義に厚く、清廉潔白で恥辱(ちじょく)を知り、農民や商人は質素で実直な気風を持ち、上(かみ)を尊(たっと)び、よく法を守っております。また、下(しも)に反逆を企て法に抵触する者少なく、上に身命を捨てて節義を守る人が多いことから、政令や法律は寛大にして厳粛であり、一人一人が自己の職務に精励し、平和な日々を送っております。

更にまた、国土が肥えて作物に適することも世界に秀で、物産も豊かで多く、種々の鉱物・植物から魚貝鳥獣(ぎょばいちょうじゅう)に至るまで、不充分なものはありません。国民が今日まで、衣食に不自由することなく安楽に暮らしてこられましたのは、実にこの日本に生まれたからこそのことで、これらはことごとく天子様の御恩のお陰であると、有り難く存じ上げる次第であります。

◎学問というもの(P.158)
学問というものは、大いに世間の風俗に影響を与え、教化の力が大きいものであるから、洋学を学ばせるについても、忠義・実直の精神と、精錬で恥辱を知る気風とを本源とすることが大切である。

◎学問とは(P.159)
学問とは、人として踏み行うべき正しい筋道を修行することであって、技能に習熟するだけのものでは、決してない。ところが、とかく学問とは技能の修行と心得ている者が多くて、自分は学者になる家柄に生まれたのではないし、またそのつもりもないから、そう深く学問をする必要はないなどと、口ぐせのようにいっている人を見かける。これは結局のところ、学問を技能の修行と心得ることから生ずる間違いである。たとえ、どんなに詩文などを上手に作れるようになっても、故事などを博(ひろ)く暗記したとしても、それだけでは一種の芸人となり得たに過ぎない。

仁義の精神を体得し、君臣(くんしん)・父子・夫婦・長幼(ちょうよう)・朋友(ほうゆう)という人間関係の中で、守るべき道義を明らかにし、祖国を守り治める道を修行することは、学者に限らず誰もが学ばねばならない問題である。それ故に、以上の条々(じょうじょう)にも述べてきたように、学問は生涯を通じて心掛けねばならないものなのである。右の趣旨をよくよく理解し、学問の本質を取違えた学生が出ないよう、注意して指導することが大切である。


※原文:学問は道の修行にて、芸術のみの修行にてはこれ無き義勿論に候ところ、兎角(とかく)芸能のみと心得(こころえ)候者これ有り、自ら儒官(じゅかん)になり候身分にはこれ無く候間、深く学問いたし候には及ばずなどと、常に能(よ)く申す人これ有り候。畢竟(ひっきょう)、学問を技芸と心得候よりの間違ひに候。たとひ、なにほど詩文等を巧みに作り候とも、故事等を博(ひろ)く覚え候とも、そればかりにては、一個の芸人にて候。仁義を旨(むね)とし、五倫(ごりん)を明らかにし、家国を治め候修行は、儒官にあらずとも、誰も同様のことに候。これによりて、前条申し述べ候通り、学問は生涯のことと心得申すべき事。右の旨、よくよく心得まかりあり、取違ひの者これ無きやう、引立て方(かた)専要(せんよう)に候。

※藩校明道館(めいどうかん)の洋学科御新設について(安政4年(1857)4月)より
※五倫=人として守るべき五つの道。君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。

◎書懐(漢詩より、P.221)
「春帆(しゅんぱん)を掛けて太平に泛(うか)ばんと要す」
~思うに、わが国も、この鎖国をいつまでも続けることができる情勢ではなく、近い将来には渡航の禁もゆるくなるであろうから、その時には、帆(ほ)に春風(しゅんぷう)をいっぱいに受けて、太平洋を航海したいものである。

◎松平春嶽「左内小伝」解題(P.225)
橋本景岳先生は、天保5年(1834)3月11日、福井藩奥外科医橋本長綱(ながつな)の長男として、越前福井城下に生まれ、安政6年(1859)10月7日、江戸伝馬町の獄舎において斬首の刑に処せられた。その生涯は、わずかに26年である。

しかも、その卓越した才識を中根雪江(せつこう)をはじめとする藩の要路に認められ、それが藩主松平春嶽の上聞(じょうぶん)に達し、大いに抜擢されることとなったのは、安政2年(1855)10月、22歳の時であり、更に、君命を帯びて深く我が国の将来に関係する難問解決のため、直接的な活動を開始したのは、ようやく安政4年(1857)夏以降のことであったから、先生の本格的な活躍期間は、ごくごく晩年、ほんの数年のことであったといわねばならない。にもかかわらず、先生は誠に偉大な足跡を歴史上に遺し、それは今後も永遠不滅である。

福井第16代藩主松平春嶽が、維新後、家臣たる先生の小伝を執筆し、その自筆原本が春嶽公記念文庫に伝えられている。


~橋本左内小伝~

家臣橋本左内は、人となりまことにさとく、子供のころから学問を好み、藩の儒学者吉田東篁(とうこう)について経書や歴史を学んだ。成長するにしたがい、世の中のさまを歎(なげき)、大志を抱くようになった。その人物見識は、余人(よじん)をはるかに越え、しかも性格は、あくまで温和・純粋で謙虚さを失わず、一度も人と争ったことがなかった。嘉永(かえい)2年(1849)16歳の時、発憤して次のように言った。

「このような片田舎で学んでいたのでは、井の中の蛙から出ることはできない。なんとかして中央に遊学し、天下の大学者に師事して知識を開いてもらいたいものだ。」

そしてこの年の秋、ついに大阪に出て、当時第一等の蘭学者であった緒方洪庵(こうあん)の適々斎塾に入門し、西洋医学を学んだが、嘉永4年(1851)、父が病に倒れ御役を勤めることがむずかしくなったたため、帰国して父を助けることとなり、翌5年閏(うるう)2月、福井へ帰り、父長綱が歿(ぼつ)するや、翌11月ただちに家督相続を許され、藩医の列に加えられた。

(中略)

翌安政2年7月、藩命を受けて福井へ帰り、10月には藩医の職を免ぜられて御書院番に列せられた。そして、11月には再び江戸に遊学し、藩邸に寄宿して学問に励み、翌3年5月帰国した。ちょうど藩では、新しく文武の学校を興し、学問を盛んにしようとしている時であったから、綱紀を藩校の幹事に任じ、一藩の教育改革に当らせた。

安政4年(1857)24歳、綱紀を江戸に召して侍読(じどう)(主君に学問を教授する学者の役職)に任命した。当時の日本は、嘉永6年アメリカ使節ペリーが来航して国交を要求してより以降、極めて多事多難で物情(ぶつじょう)騒然としていた。ところが、時の将軍家定公は病弱で将軍職の重責に堪えず、世嗣(よつぎ)もなかったので、各藩の有志は協議して、英才の誉高く、天下の人望を集めている一橋慶喜公を立てて、将軍の後継者にせんとし、かつ条約や神奈川開港などの外交問題は充分に公共の論議をつくすべきであって幕府の独断により決定すべきものではないとした。こうした状況下に、綱紀は薩摩・土佐など諸藩の豪傑や、幕府有司(ゆうし)と親交を結び、右のことを実現するため力を尽し、周旋(しゅうせん)につとめた。また、水戸の徳川斉昭(なりあき)公・土佐の山内豊信(とよしげ)公(号容堂)、それに私なども皆この説を主張したのである。しかるに、大老井伊直弼は、ひとり群議を排して紀伊の徳川慶福(よしとみ)公を擁立せんと願っていた。

安政5年正月、綱紀は京都に上り、ただちに鷹司太閤政通(たかつかさたいこうまさみち)・近衛左大臣忠煕(ただひろ)の二公、及び公卿(くぎょう)の家臣中の有志と議論をかわし、外国との条約締結・開国通商の二問題は、しかるべく朝廷のご裁決を得た上で行わねばならないとした。この年7月、13代将軍家定公が薨(こう)じ、紀伊の慶福公が継いで14代将軍(家茂(いえもち))に就任し、慶喜公を立てんと運動した尾張の徳川慶勝公・水戸の斉昭公・土佐の豊信公及び私は、これによって厳しい処分を受け、それぞれの屋敷に幽閉された。やがて10月22日夜、数名の幕府役人が藩邸に来(きた)り、綱紀の役宅を捜索し、文稿及び書状の類を押収して去り、その翌日、綱紀は奉行所へ召喚(しょうかん)され、藩邸禁錮(きんこ)を命ぜられた。その後、糺問(きゅうもん)を受けること数回、翌安政6年(1859)10月2日、入獄を命ぜられ、同月7日、斬刑(ざんけい)に処せられた。この時わずかに26歳。後にその遺骸を郷里福井に移し、某所に葬った。

◎啓発録(P.231)
「啓発録」は、先生が嘉永元年(1848)15歳(満14歳)の時、偉人英傑の言行や精神を学んで、深く感奮興起(かんぷんこうき)され、自己の規範として、また自身を鞭撻(べんたつ)する目的で手記されたものである。

◎(P.234)
攘夷の無謀と開国の必要性を力説した。

◎先生の名(P.238)
先生の名は綱紀(つなのり)、通称を左内(さない)といわれました。景岳というのは号であって、宋の岳飛(がくひ)を慕われたところから、ご自分で選ばれた号であります。

◎「啓発録」について(P.239)
これは幸いにして先生自筆の本が残りまして、ただ今も御物(ぎょぶつ)として宮中に納まっております。

◎(P.239)
安政元年21歳の春、江戸へ上って杉田成卿先生の門に学ばれました。語学に錬達(れんたつ)しておられましたために、その読書研究はひとり医学にとどまらず、西洋の歴史、地理、科学、兵学、その他あらゆる方面にわたって、ひろく海外の文物人情を察し、世界最近の動向を知ることができました。

江戸の遊学によって得られましたのは、ひとり西洋の学問智識ばかりではありません。その間に接触し、交際せられましたのが、藤田東湖・佐久間象山・芳野(よしの)金陵(きんりょう)・安井息軒など、いずれも当時、名の一世にひびいた人物でありましたから、その接触交遊は魂を磨く上に、大きな働きがあったに違いありません。

◎(P.240)
今までの医学研究生の身分から、一躍して藩の学校明道館(めいどうかん)の指導者となり、藩主春嶽公の信任を得て、教育の範囲を拡張し、方針を決定せられました。

(中略)

明道館の改革に当ること約1年、安政4年の8月には、国家の急務に促されて、先生は江戸へ出て来られます。年は24歳、肩書は秘書官とでもいってよいでしよう。越前藩は親藩の筆頭第一席、その支藩は全国に散在して数多くあります。その一列の越前系の本家藩主の絶対の信頼と委任を受けて、32万石を背景として動くのでありますから、24歳の青年といえども、その一言一行は重いとしなければならぬ。まして先生の学問はひろく、その見識は高く、説かれるところの国策は、何人(なんびと)も思い及ばざるもの、遠く時流をぬきん出て、古今に絶するものでありました。

当時の日本国、重大問題が二つありました。一つは鎖国か開国かの問題、今一つは将軍徳川家定病気重態であって、しかも後嗣(あとつぎ)が無い、これをどうするかという問題、以上二つとも非常にむつかしい問題でありました。今から考えれば不思議なようでありますが、三代将軍家光の代、寛永年間に鎖国の方針をきめて以来約二百年、我が国は世界の中に孤立して、自分の耳目(じもく)をとざしてきました。それが嘉永6年ペリーが来航し要求するに及んで、にわかにあわて出して、開国かどうかの議論が起り、大多数の者は開国に反対でありました。

反対どころではない、攘夷、つまり武力で打払えというのであります。その問題を決定しなければならない時に、将軍は重態であり、後嗣がきまらないのでありますから、政府に責任者が無いという状態でありました。

この国家緊急の大問題に対して、人々困惑して議論沸騰しました時に、橋本景岳先生の立てられた説は、真に抜群のすばらしいものでありました。その要領は、次の通りであります。

すなわち同じ地球の上に国を立てながら、自分だけが孤立して、一切外の国とは交際をしないということは、不条理であり、不義理であって、するべきことではない。その上に、それは、航海術の発達した今日においては、不可能なことであり、できる相談ではないのだ。すべきことでもなく、できる相談でもない以上、当然鎖国の方針を一変して、国を開いて万国と交わらなければならないのであるが、世界の情勢を観察するに、弱肉強食の有様で、弱いものは征服せられて属国となり、亡国となる例が多い。それ故に開国に当っては、軍備を充実しなければならず、その軍備といっても、昔風の槍(やり)や刀だけでなく、西洋の兵器と戦術とを研究して、それに対抗し、これを撃破する力をもたなければならぬ。

殊に注意しなければならないのは、世界の強国の動きだ。今日強国というべきものは、英国と露国(ろこく)とであって、遠い将来に国際連盟のようなものができるであろうと思われるが、その時にも連盟の牛耳を執るものは、英・露二つの国のどちらかに相違ないと思われる。しかしただ今のところ、アジアに迫ってくるものは、北からは露国、南からは英国、一つはシベリアを席捲(せっけん)して進み、一つはインドを併呑(へいどん)して清国に迫って来た。日本はこの二つの強国に対処する方針を策定しなければならない。自分の考えでは、この二つの国は互いに相争っているのであるから、我が国はどちらか一つの国と同盟するがよい。もし日英同盟成立すれば日露戦争が起り、逆に日露同盟成立すれば日英戦争となるのであろうが、どちらにせよ同盟があれば我が国は苦戦であり敗戦であっても、全然亡国となることはあるまい。そしてその苦戦の経験により、鍛錬せられて強国となってゆくに相違ない。但しこの方針をもって進むためには、国内の態勢を今のままにしておいてはならない。日本国の国体の本義にかえり、天皇を奉じ、天皇を中心として、三千万の国民一丸となって進まねばならない。そして国民の中には、さがせば必ず人材があり才智才能があるから、従来の身分その他の関係を離れて、有能の人材を抜擢し、適材を適所に登用しなければならぬ。かような見地からいえば、将軍の後嗣(あとつぎ)に就いていわれている二人の候補者の優劣もおのずから明瞭である。すなわち一人は一橋慶喜、年齢二十一歳、聡明であり、人望がある。他の一人は紀州の慶福(後の家茂[いえもち])、年齢12歳、聡明の噂もなく、人望があるとも聞かぬ。非常の時、まさか違えば戦争という重大な時に、12歳の少年で将軍が勤まるはずはない。およそ将軍職は、天皇によって任命せられるものであるから、天皇より御指示をいただいて、年長、聡明、人望の人を任命せられるがよい。以上が景岳先生の意見の概略であり、大要であります。

これは当時において破天荒であるのみならず、かくまでに雄大にして、適切であり、まことに道理にかなった救国策を、我々は古今幾百年の間に、一度も聞いたことがなかったのであります。

この救国策を聞いて、最も驚嘆し、感銘し、景岳先生の無二(むに)の親友となった人は、大西郷でありました。初対面の時、先生は22歳、これに対して西郷隆盛は29歳、大西郷の方が7つ年上でもあり、体格も豪壮、景岳先生の方は女のようにやさしく弱々しく見えましたので、初めは西郷もこれを軽くあしらっていましたが、やがて国事を論ずるに至って、西郷は驚嘆し、驚嘆につぐに敬服をもってし、敬服につぐに心服(しんぷく)をもってし、景岳先生の指導の下に、一緒に国事に奔走するようになりました。景岳先生は26歳にして殺され、事を共にした人々、皆罪人として処分を受けましたために、その一生の事蹟(じせき)、明瞭にすること容易でありませんが、大西郷は、これも当然井伊大老の弾圧、いわゆる安政の大獄によって殺されるはずでありましたのが、いち早く捕縛(ほばく)されようとした清水寺の月照(げっしょう)を助けようとして、京都を脱出して、ひそかに鹿児島まで走ったものの、鹿児島でも藩主島津斉彬公なくなられて後は方針が変りまして、到底月照をかくまうわけにはゆかなくなったのを見た西郷は、月照と打合せて月見と称し、舟を浮べて鹿児島湾に乗出し、月を賞しながら両人手をとって、突然海に身を投げました。同じ舟に乗っていました平野国臣、驚いて2人を救い上げましたが、月照はすでに息が絶えており、西郷は蘇りました。蘇ったものの、薩摩藩ではその処置に困り、西郷も死んでしまったことにして、ちょうど死刑に処せられた罪人があったので、その死骸を西郷の死撤と披露し、西郷本人は名を変えて菊池源吾と改め、大島へ流しました。井伊大老のきびしき追及をまぬがれて、西郷が生きのびることのできましたのは、かような不思議の運命に導かれてのことであります。

(中略)

安政5年の前後、井伊大老の徳川政権中心主義に対して、日本の国体の上からこれに反対し、全国民が天皇を仰ぎ、天皇を中心として一致団結し、その一致団結の力によって、世界に乗り出して行こうとする運動の、中心勢力は、水戸・越前・長州・薩摩、いろいろあります中に、井伊が最も恐れたもの、誰かといえば、それは橋本・西郷・吉田松陰、これらの人物でありましょう。井伊が苛酷(かこく)なる検察を始めた時、まず捕縛(ほばく)拘禁(こうきん)したのは、これらの人々であり、そして結局死刑に処したのも、これらの人々でありました。殊に景岳先生がこの検挙を免れるはずはないのであります。先生が家宅捜索を受けられたのは、安政5年10月22日、拘禁せられたのは、その翌日、たびたびの糺問(きゅうもん)の後、翌年安政6年10月7日判決申渡(もうしわたし)があり、処刑となりました。当時の制度、最高裁判所というべきものは、評定所(ひょうじょうしょ)でありました。その評定所の決定は、遠島を相当としましたが、井伊大老はこれを見て、直ちに朱筆(しゅひつ)を執り、死罪と書き改めたということであります。

かようにして景岳先生の一生は、わずか26歳にして終りましたが、その精神を最もよく理解し、これに共鳴し、これに協力したのが西郷でありました。この二人が協力して、明治維新の道を切り開いて進むのであります。文は景岳先生、武は大西郷、文武は車の両輸の如し。橋本と西郷、お二人の提携するところ、天下無敵でありましょう。それを井伊は恐れたのであります。恐れて橋本先生を殺した。しかし大西郷は、不思議にも海に身を投げて奇蹟的に蘇り、大島にかくれていたために生き延びて、ついに明治維新の武勲第一とたたえられたのであります。

その大西郷、景岳先生より生き延ぴること18年、明治10年9月24日、戦敗れ道窮(きわ)まって、郷里鹿児島へ帰り、城山の麓において、痛ましき一生を終りました。その直後に軍の兵入って来て捜索しましたところ、大西郷がいつも携えていた軍用鞄が落ちていたので、持ち帰って上官に提供した。上官が調べてみると、その中に景岳先生より西郷に宛てらてた書簡、安政4年12月14日付のもの一通が入っていたので、後に持ち帰つて、天覧に供し奉ったということであります。安政4年は、明治10年より20年前でありあす。20年も前に亡くなった人の書簡一通を、20年も後まで、しかも波潤万丈、千辛万苦(せんしんばんく)の中に、ほとんど肌身離さず携帯して、これを手離すに忍びない意びなかったということは、いかに西郷が景岳先生を敬慕していたか、つまり景岳先生は大西郷にとって、知己(ちき)であり、光明であり、救いであったことを示すものに外ならないのであります。

『啓発録』(橋本景岳(左内)/伴五十嗣郎(ばん いそしろう)全訳注、講談社学術文庫)