『修身教授録』(2)

◎真に人材を植える(P.124)
真に人材を植えようとしたら、現在自分の眼前に居ならんでいる生徒たちを、単にその現在眼前にいる姿において見ているだけでは足りないと思うのです。つまり子どもたちを、単にその1時間、1時間を基準にしてしか見ない教育は、その効果もまた、1時間、1時間で消え去る外ないでしょう。すなわちそれは、わが教え子たちの遠い将来を見通すことなく、しだいに成長していくその魂の中に、一生をつらぬく大眼目をまき込むことなくして、ただその日の所定の教科を、単に型通りに授けることをもって、能事畢(おわ)れりとするような教育であって、畢竟するに、幼稚園児のお相手と、本質的には何ら異なるところがないと言えましょう。

◎真の個性教育(P.128)
真の個性教育とは、我流の教育にあらずして、真実に生きることを教える教育なり。相手をして真に止むに止まれぬ一道を歩ましめんとの一念に出ずるなり。

◎師匠(P.128)
真に卓越せる師匠は、その愛する弟子には、最も厳しく対すると言うを得べし。

◎叱る(P.130)
大声で生徒を叱らねばならぬということは、それ自身、その人の貫禄の足りない何よりの証拠です 。つまりその先生が、真に偉大な人格であったならば、何ら叱らずとも門弟たちは心から悦服するはずであります。

◎真に優れた師(P.131)
真に優れた師というものは、門弟たちを遇するのに、単なる門弟扱いをしてはいないからでしょう 。すなわち優れた師匠というものは、常にその門弟の人々を、共に道を歩む者として扱って、決して相手を見下すということをしないものであります。ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。すなわち求道者たる点では、自分と生徒たちとの間に、何らの区別 もないというわけです。 この時生徒はわれと共に道を求めて歩む者であり、よし現在においては自分より遅れているとしても、やがてはその中から自分に追いつき、さらには自分を乗り越えて進む者も出てくると考えているのであります。

◎至剛而至柔(P.133)
易には「至剛而至柔」という言葉がありますが、実際至柔なる魂にして、初めて真に至剛なるを得るのでありましょう。

◎人間の知恵(P.134)
人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにあるのです 。教育とは、そういう知恵を身に付けた人間をつくることです。

◎自己を形づくる支柱(P.134)
人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。単に受身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もありません。

◎真の値打(P.134)
同一のものでも、苦労して得たのでないと、その物の真の値打は分からない。

◎死後(P.134)
死後にも、その人の精神が生きて、人々を動かすようでなければなりません。それには、生きている間、思い切り自己に徹して生きる外ないでしょう。

◎自覚(P.134)
人間は生まれると同時に、自覚の始まるわけではない。それどころか、人間が真の自覚を発するのは、人生の1/3どころか、1/2辺まで生きないと、できないことのようです。そしてここに、人間の根本的な有限性があるわけです。

◎人間が平べったくなる(P.135)
絵本の流行もあまり感心しませんが、漫画本に至ってはひどいですね。知を開くことが早すぎると 、どうしても人間が平べったくなります。そして持続力がなくなる。

◎本(P.137)
本を読む場合、分からぬところはそれにこだわらずに読んでいくことです。そうしてところどころピカリピカリと光るところに出合ったら、何か印を付けておくのもよいでしょう。そして一回読み終えたら、少なくとも2、3ヵ月は放っておいて、また読んでみるのです。そうして前に印を付けた ところ以外にもまた、光るところを見つけたら、また新たに印を付けていく。そうして前に感じたことと、後に感じたことを比べてみるのは面白いものです。 書物というものは、義務意識で読んだんでは駄目です。義務意識や、見せびらかし根性で読みますと、その本の3分の1はおろか、5分の1の味も分からないでしまいます。

◎真の修養(P.138)
真の修養とは、人間的威力を鍛錬することです。その人の前では、おのずから襟を正さずにはいられないというような人間になることです。

◎読書の順序(P.138)
読書の順序は、まず第一には、当代における第一流の人の本を読むこと、その次は古典です。当代 の一人者級の人の世界を知らないで、古典を読むということは、私は考え物だと思います。

◎寿命(P.139)
国家の全運命を、自分独自の持ち場のハンドルを通して、動かさずんば已まぬという一大決心の確立した時、その人の寿命は、天がその人に与えた使命を果たすだけは、与えるものです。それより永くもなければ短くもありません。

◎教育の第一歩(P.140)
「一刻も早く親のすねかじりから脱して、自立する覚悟をさせる」ということが大切です。

◎(P.141)
人間もほんとうに花の開き出すのは、まず40くらいからです。そしてそれが、実を結ぶのは、どうしても60辺でしょう。ところが偉人になると、実の結ぶのは、その人の肉体が消え失せた後ですから、大したものですね。

◎血、育ち、教え(P.144)
人間というものは、血、育ち、教えという3つの要素からでき上がると言えましょう。ここに血とい うのは血統のことであり、さらには遺伝と言ってもよいでしょう。また育ちというのは、言うまでもなくその人の生い立ちを言うわけです。家庭における躾というものは「育ち」の中にこもりますから、教えとは、家庭以外の教えということです。

◎生徒の真実を把握する(P.149)
教育者は必ずしも流行の教育思潮を知るを要せず。肝腎なことは、自己を知ることを通して生徒の真実を把握することなり。

◎鍛錬道(P.150-160)

◎鍛錬(P.160)
われわれ凡人は人生のある時期において、何らかの意味でかようなきびしい鍛錬をその師から受けない限り、真の人間とはなれないのではないでしょうか。

◎下座(P.167)
人間下座の経験なきものは、未だ試験済みの人間とは言うを得ず。唯の三年でも下座の生活に堪え得し人ならば、ほぼ安心して事を委せ得べし。

◎釣り合う(P.167)
物の存在は、すべて何処かで釣り合うものなり。それを釣り合わずと見るは、吾人の眼界の未だ狭小なるが故なり。

◎一生の基礎(P.168)
人間の一生の基礎は、大体15歳までに決まるものだと思うのです。したがってその年頃になるまでの教育は、相手の全人格を左右して、その一生を支配する力を持つわけです。

◎仕事の処理(P.175)
どれを取ってどれを捨て、何を先にしてどれを後にすべきかという判断を、明敏な頭脳をもって決定すると共に、断乎たる意志をもって、これを遂行していかねばならぬからであります。

◎日常生活の充実(P.176)
日常生活を充実したものにするとは、一体何なのかと言えば、これを最も手近な点から言えば、結局なすべき仕事を、少しの隙間もおかずに、着々と次から次へと処理して行くことだと言ってもよいでしょう。

◎仕事の処理上の心がけ(P.176)
第一に大切なことは、仕事の処理をもって、自分の修養の第一義だと深く自覚することでしょう。この根本の自覚がなくて、仕事を単なる雑務だなどと考えている程度では、とうてい真の仕事の処理はできないでしょう。

◎とにかく手をつける(P.178)
このように明弁せられた順序にしたがって、まず真先に片付けるべき仕事に、思い切って着手するということが大切です。この「とにかく手をつける」ということは、仕事を処理する上での最大の秘訣と言ってよいでしょう。次に大切なことは、一度着手した仕事は一気呵成にやってのけるということです。

◎基礎的教養が大切(P.190)
人間もあまり早くから、ことさら何か特色を出そうとあせるのはよくないことで、とくに諸君らのように、これから青年期の第一歩を歩み出そうとする人は、十分に広くして深い基礎的教養が大切だと思うのです。

◎偉人の書(P.196)
偉人の書を読み、たとえ1、2ヵ所にても、ひしひしと我が身に迫るものあれば、その程度に、その偉人に触れたるものと言うを得べし。そして何時かはそれが手掛かりとなって、自己の一大転換の機もあらむ。単なる解説書には、かかる転換の機を蔵することなし。

◎対話の心がけの根本(P.198)
なるべく相手の人に話さすようにする。さらには進んで相手の話を聞こうとする態度が、対話の心がけの根本と言ってよいでしょう。つまり、なるべく聞き役に回るということです。

◎秩序(P.212)
世の中というものは、秩序の世界であり、秩序の世界というものは、必ず上下の関係によって成り立つものです。

◎甘い言葉(P.223)
人間というものは他から「甘い言葉」をかけられますと、とかく甘え心の起きやすいものだからです。とくに上の人からの場合そうです。 そもそも目下の者が甘えるとか、さらにはつけ入るなどということは、結局は上の者の方が、先に心の隙を見せるからです。

◎情熱(P.227)
そもそも人間というものは、情熱を失わない間だけが、真に生きていると言ってよいのです。内面的情熱の枯渇した時は、すなわち生命の萎縮した時と言ってよいのです。

◎苦しみ(P.231)
「苦しみに遭って自暴自棄に陥るとき、人間は必ず内面的に堕落する。…同時に、その苦しみに堪えて、これを打ち越えたとき、その苦しみは必ずその人を大成せしめる。」人間の真の強さというものは、人生のどん底から起ち上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から起ち上がってきた人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう。

◎真の教育(P.235)
真の教育というものは、単に教科書を型通りに授けるだけにとどまらないで、すすんで相手の眠っている魂をゆり動かし、これを呼び醒ますところまで行かねばならぬのです。すなわち、それまではただぼんやりと過ごしてきた生徒が、はっきりと心の眼を見ひらいて、足どり確かに、自分の道を歩み出すという現象が起こって来なくてはならないのです。

◎(P.236)
わが国の教育で、現在何が一番欠けているかと言えば、それは制度でもなければ設備でもなく、実に人的要素としての教師の自覚いかんの問題だと言うべきでしょう。かくして今日教育の無力性は 、これを他の方面から申せば結局「志」という根本の眼目が欠けているということでしょう。なるほどいろいろな学科を型どおりに習いはするし、また型どおりに試験も受けてはいます。しかし肝腎の主人公たる魂そのものは眠っていて、何ら起ち上がろうとはしないのです。

志とは、これまでぼんやりと眠っていた一人の人間が、急に眼を見ひらいて起ち上がり、自己の道を歩き出すということだからです。何年、否何十年も学校に通いながら、生徒たちの魂は、ついにその眠りから醒めないままで、学校を卒業するのが、大部分という有様です。ですから、現在の学校教育は、まるで麻酔薬で眠りに陥っている人間に、相手かまわず、やたらに食物を食わせようとしているようなものです。人間は眠りから醒めれば、起つなと言っても起ち上がり、歩くなといっても歩き出さずにはいないものです。食物にしても、食うなと言っても貪り食 わずにはいられなくなるのです。

◎欠点(P.238)
そもそも人間というものは、自分の欠点に気付き出した時、すでにその欠点を越えようとしつつあるといってもよいでしょう。

◎公(P.239)
人間も真に公ということが分かり出しますと、限りない努力をしながら、しかも疲れを覚えなくなるのです。

◎真の良書(P.241)
真の良書というものは、これを読むものに対して、その人の人生行路を決定していく意義を持つと言ってもよいからです。

◎真の教育(P.244)
真の教育というものは、その根本において、実に人間救済に対する偉大な情熱を持つでなければ、 とうてい真の力を持つものではないわけです。しかも人間救済の情熱は、これを大別する時、結局、政治と教育という2つの現れ方をすると言ってよいでしょう。すなわち政治は外を正すことによって、内をも正そうとするものであり、教育はこ れに反して、内を正すことによってついには外をも正そうとするものであります。したがってその現れる方向こそ違え、政治と教育とは、本来不可分のものでなくてはならぬはずであります。

◎真の教育者(P.245)
真の教育者は、その心の奥底には、いかにしてこの現実界を救うかということが、その根本の問題だからであります。

◎生命の種子をまく(P.247)
まいた種子が、全部生えるということはないでしょうが、同時にまたまいた以上は、どんな痩地でも、必ず若干は生えるものです。そこでわれわれ教師としては、生徒の素質のいかんを言う前に、まず生命の種子を相手の心の中へまき込むことです。生命の種子をまくとは、自分の全信念を傾けて教えるということです。

◎真実の道(P.250)
真実の道は、一体いかにして興るものでしょうか。それには、「自分が道をひらくのだ」というような一切の野心やはからいが消え去って、このわが身わが心の一切を、現在自分が当面しているつとめに向かって捧げ切る「誠」によってのみ、開かれるのであります。

◎真の誠(P.250)
真の誠とは、その時その時の自己の「精一杯」を尽くしながら、しかも常にその足らざることを歎くものでなくてはならぬからです。

◎誠に至る(P.252)
誠に至るのは、何よりもまず自分の仕事に全力を挙げて打ちこむということです。かくして誠とは、畢竟するに「己れを尽くす」という一事に極まるとも言えるわけです。すなわち後にすこしの余力も残さず、ひたすらに自己の一切を投げ出すということでしょう。 これは自分が体当たりで打ちかかっていくところから、そこにおのずと開けてくる道と言ってもよいでしょう。それは白墨の使い方一つに至るまで、そこに真心がこもるところまでいかねばならぬわけです。

◎至誠(P.254)
松陰先生は「至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり」とおっしゃっていられますが、諸君らはこれを只事と思ってはならぬのです。自分のすべてを投げ出していく必死の歩みなればこそ、誠は真の力となるのです。

◎寒さ(P.255)
教師は、今日は生徒たちがどれほど寒がっているかということが、分かっていなければならぬのです。教師の方は積極的な立場ですから、それほど寒さは感じません。ですから生徒の寒さを自分と同じと思っていてはいけないのです。生徒の寒さに対する察し一つつかないようでは、教師の資格はありません。

◎批評眼(P.263)
批評眼は持つべし。されど批評的態度は慎むべし。すべからく他を批判するの眼を自己に返照し来って、創作実現へと踏み出すべし。

◎大きな識見を持つ(P.269)
国民の義務教育に従うものは、単に子どもたちを教えるばかりでなくて、実にその校下の民心を導くに足るだけの大きな識見を持っていることが、望ましいわけであります。

◎学問とは(P.272)
学問というのは、現実の生きた道理を明らかにすることを言うわけです。そしてそれが真の哲学というものでしょう。

『森信三 修身教授録』(致知出版社)