◎人は才能が有っても、学問によってその才能を磨き、器量を高め広めなければならない。そして学問を成就するには、平静なことが必須条件である。もし学問を怠り、身心の平静さを欠くならば、理の精粋を究め、性質を研磨することは不可能である。こうして、何も達成しないまま、歳月は学ぶべき時節と共に過ぎ去って、道を求める志意(しい)も歳月と共に衰退し、やがて、草木が枯落(こらく)するように老衰してしまい、貧弱な住居にくすぶって、学ぶときに学ぶことを怠ったことを悔い、悲しみ歎いてみても、もはや何とも、追いつかないことなのだ。(P.105)
◎一般に、名門の地位にいる者が、その名声をそこない、己れの身に災厄を受け、先祖を辱め、家を亡ぼすことになってしまう最大の過失として、次の五がある。よくよく記憶しておかねばならない。
その第一は、自分の生活の安楽を求めて、質素淡薄な生活に甘んずることができず、自分の利益にさえなれば、他人の非難など気にしないことである。
その第二は、修己治人の学問を身につけず、先人の教えを悦び学ぼうとせず、聖教賢伝に無知なことを恥と思わず、ただ、今の世のことのみ、みだりに論評して面白がっており、自分の無学を棚にあげて、他人に学問があることを憎むことである。
その第三は、自分より優れた者を嫌い、自分におもねりへつらう者をよろこび、ただ戯れの会話のみに明け暮れして、古の聖賢の教えを学ぼうとせず、他人の善行を聞けば、ねたみ、他人の悪過を聞けば、やたらといいふらして、偏頗邪僻(へんぱじゃへき)のことに入りびたり、自己の道楽義理を自ら消しつぶしてしまうことである。
その第四は、ただのどかにゆたかなことを最上とし、酒にふけりたしなんで、酒杯を口にしていることを高士の風とし、仕事に精を出すのは、俗物のすることいやしむことである。これが習慣となってしまうと、生活は荒み易く、これに気付いて悟っても、心がすでに荒んでしまっているので、回復することは難しくなってしまう。
その第五は、高官になりたいとあせって、要路に在る権力者にひそかに親しみ寄ることである。このように権要の者に近づいて、多少の地位・俸禄を得ることができたとしても、必ず、多くの人々の怒りと猜(そね)みを受け、長く依持することはできないものである。
自分はあまたの名門・名族を見てきたが、みな祖先の忠孝・勤倹によって築き上げられなかったものは無く、子孫の頑鈍・軽率・奢侈(しゃし)・傲慢によって零落(れいらく)しなかったものは無い。名門を築きあげることの難しいことは、まさに天に登るようであり、零落して名声を失墜することの容易さは、羽毛を焼くようなものだ。それら
の事例を挙げれば心が痛む。お前達は深く心に記憶せねばならない。(P.111)◎心を治め己れを修めるには、先ずもって身に切実な飲食と男女の欲望、すなわち食欲と色欲の二つに対処することが肝要といえる。昔から聖賢も、その対処から心を治め身を修める実践に工夫を重ねていったのであり、決してゆるがせにしてよいことではない。(P.115)
◎視覚の戒めに言う。心は本来、虚で、つまり何でも受け容れるもので、外からの刺激に応じて動き、変化して固定した跡形を残さない。放任しておけば、あらゆる方向に動いて行ってしまうので、必ず要領よく操守する必要がある。視覚における克己復礼は、心を操守する工夫の法則となるのである。もし視において明を失い、不正の外物ばかり受け入れてしまうと、内なる心は誤った方向に動かざるを得ない。外物に対する第一の関門である視において制約を加えて、内なる心を安定させる。この視において「己れに克ち、礼に復する」よう努めることは、やがて心の誠を達成する第一条件となる。
聴覚の戒めに言う。本来人間は、天性に基づいて正しい道を歩むものであるが、外からの刺激に誘われると、その知つまり判断が誤ってしまう。すぐれた先覚である聖賢は、自分の在るべき所を知って、心の安定を得、更に邪悪を防いで心の誠を保持するのである。だから礼に外れたことは聴いてはならないのである。(P.129)
◎孟子言う。宮殿の高さがあり、ご馳走を前に一丈四方もならべ、侍女は数百人などという富貴など、自分は志を得ても、そんな真似はしない、と。道を学ぼうとする者は、先ず、世俗の求める味わいを除き去って、常に自分を激励し、意気を昂揚しなければならない。そうすれば、心志の堕落をまぬかれることができるであろう。(P.139)
◎『論語』『孟子』を読み込むには、熟読して内容を玩味し、聖人の言葉を、自分自身のことと切実に受けとめなければならない。ただ単に、聖人がその時その場でした訓話に過ぎず、自分には関係ないものと看做してはならない。もしこの両書をよく読み込んで、その内容を自分自身のこととして切実に会得して行けば、生涯にわたって得る所が極めて多大であろう。(P.158)
◎今日、一事を記憶し、明日、一事を記憶するという様に、久しく知識を蓄積してゆくと、自然に一切の事物が脈絡を有し、一貫して理会されるようになる。今日、一理を弁別し、明日、一理を弁別するという様に、理を弁別する工夫を積み重ねてゆくと、自然に道理が心にしみ入って、心と一つになって来る。今日、一難事を行い、明日、一難事を行うという様に、難事の実践を重ね続けてゆくと、自然に意志が堅固になって来る。このように、心意の欲するところが、道理と一致する様な心満ちて安らかな境地は、久しい修練蓄積(致知力行)の結果として自然に得られるので、このような努力なくして偶然に達成されて来るものではない。(P.161)
◎若い学徒のうちで、天与の才能や性質をもった者は、畏れるに足りない。他方、ひたすら読書してその義理を深く思索し、道理を更に追究する者こそ、畏るべき者である。更にまた言う。読書では、尋思(じんし)ということが際立って難しいものだ。思うに、聖賢の書の中の語は、精しく深い義理が含まれているので、ただひたすら、その意味を考え、自分の心で思索工夫してみて、初めて理解できるものなのである。学ぶに当たって、粗略で心を尽くさず、尋思推究(すいきゅう)を煩わしいと考える者では、決して学問が達成できるはずはない。(P.163)
『「小學」を読む』(荒井桂・著、致知出版社)