『ときあかし版 [完訳] 日月神示』

◎神を祀ることについて根本的に重要な意義

何のために神を祀らねばならないのか、その答は「神祀らねば何も出来ぬぞ」にある。現在でも、神社や仏閣に神仏は祀られてはいるが、その実態は「●(○にゝ)をダシにして、今の上の人がいるから、●の力が出ないのぞ」という。強烈な指摘である。つまり、神も仏も、人間によって金儲けや人心支配の道具になり下がっており、これでは神仏も本来の力が出ないということであろう。

◎日本の国全部が神の体ということに行き着いてしまった

神示を要約して、順番に見ていくと次のようになる。
1.山、川、海、雨、風、草木、天地のものは、みな神である。
2.だから、山にも川にも野にも里にも家にも、みな神を祀れ。
3.何故ならば、日本の国土が神の肉体であるからだ。

このように、日月神示では一口に神の山といっても、一本の草から日本の国土全部までを指していることがわかる。つまり、神を祀るということはこれほど多様性に富むということなのだ。

神祀りの本義は、どの神を祀ろうと、何処に祀ろうと、究極のところは人が見晴らし台となって神の心霊に満たされ、神人合一になることである。古来、日本人が、「惟神(かんながら)の道」と呼んだのは、まさにこのことであった。

◎てんし様

日本で「てんし様」といえば天皇以外には考えられない。

◎終戦の詔書「常に爾(なんじ)臣民と共に在り」

口語にすると「天皇は常に国民と共に在る」、まさにこれこそが、昭和天皇にとって、終戦後の行動原理となっていくのである。

◎天皇とマッカーサーの会見

会見記録には、天皇が次のように発言されたとある。「敗戦に至った戦争のいろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。」マッカーサーは、昭和天皇が戦争の責任逃れをするだろうと思っていたらしく、天皇のこの言動には衝撃を受け、感動したという。

その後のGHQの占領政策に、この会見の成果が反映されたことはいうまでもない。それにしても、である。今更ながら思うことは、昭和天皇の「無私」の心である。自分のことより、国民を思うその真心である。「すごい」としかいいようがないではないか。

◎全国大巡幸

昭和天皇の国民を思う行動は、何といっても「全国大巡幸」において最も顕著に現れる。天皇は、戦後、ご自分なりの責任のとり方を熟慮され、昭和20年10月、宮内府次長に次のように仰せられている。

「この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また、復興のために立ち上がらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。ついては、宮内官たちは、わたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなしにやってほしい。官内官はその志を達するよう全力を挙げて計画し、実行してほしい。」

昭和天皇は、このように自らの戦争責任のとり方を、「全国を隈なく歩き、国民を慰め、励まし、勇気を与えること」とされ、自分の健康などは二の次にして、計画を立案するよう求められた。昭和21年元日、天皇は自らいわゆる「人間宣言」を発せられ天皇の神格化を否定、現人神の垣根を取り払われた。こうして「普通の人間」となった昭和天皇は、同年2月から、いよいよ、全国巡幸を開始される。

最初の視察地は、神奈川県川崎市の肥料工場であった。戦後の食糧増産に不可欠な産業に従事する人々を激励するのが目的であったが、これにより、同工場の士気は大いに上がり、当然のように生産量も増大した。これに刺激された他工場もまた、どん底から抜け出し始めたという。

横浜市の戦災用宿舎では、粗末なバラックのような建物の中に直接入って行き、戸口に正座して天皇を迎える人々に優しく声をかけられた。その言葉は、まだぎこちなかったが、誰もが涙に咽(むせ)び感激した。東京、新宿伊勢丹百貨店に行かれた時は、自然発生的に大群衆が集まり、驚くなかれ、「天皇陛下、万歳」という声が爆発のように湧き起こった。群集は感激・感涙し、声がかすれるまでに万歳を叫び、天皇は帽子を振ってこれに応えられた。これを機に、その後の昭和天皇の巡幸先では、何万人、時には十万人を超える大群衆が集合し、「万歳、万歳」の絶叫が響くことになる。

天皇巡幸先は、実に種々雑多であった。既に述べた工場や被災者の宿舎、百貨店などの店舗はもとより、地方の行政府(県庁、府庁)、漁港、炭鉱、山中の開拓農場や農家、戦争の被災地、水害の被災地などなど、あらゆる場所に足を運ばれた。

その情熱は、驚愕に値するものであった。福島県常磐炭鉱を訪れた際は、背広姿のまま、地下数百メートル、気温40度以上の坑内に入られ、また、長野県軽井沢町大日向(おおひなた)開拓村の視察時は、ジープも入れない悪路を、ニキロも歩いて到着された。そればかりではない。戦災で宿泊できる施設さえない場所もあったが、そんな時はお召し列車の車内で、ソファーの上で毛布にくるまって休まれたり、学校の教室では、板の間にゴザを敷いてお休みになったりもした。

昭和天皇の全国巡幸は、こんな感じで極めて多忙かつ強行軍であった。同行した記者やカメラマンが疲労でのびている中、天皇だけは何かにつき動かされるように、強い使命感をもたれて行動されたのである。

むろん、占領下の日本であったから、天皇の巡幸といえどもGHQの許可が必要であった。GHQが巡幸を許可した背景には、天皇のために戦い敗れた日本の国民が、人間宣言をした生身の天皇を目前にしたならば、それによって天皇の神格化が完全に否定され、国体の破壊につながるとの思惑があったからだ。つまりは、占領政策が有利になると見込んでいたのである。

戦前であったならば、天皇が巡幸や行幸で外にでられる時は、軍服を着用し白馬に乗っていた。沿道の民衆は整列・最敬礼したままであり、とても天皇の顔を直接見ることなどできなかった。そんな天皇が、直接、徒歩で国民の前に姿を見せれぱ、天皇のせいで父親や夫を戦争で殺された国民の反感を買うだろうと、GHQは踏んでいたわけだ。それに加えて、昭和天皇は決して体型に恵まれておらず、マッカーサーとの会見時、二人並んで撮られた写真を見てもわかるように、天皇は実に小柄であったし、しかも近眼で眼鏡をかけ、少し猫背だった。この姿を見たら誰でも天皇に対する信仰心は薄れるだろうとの判断もあったようだ。

だが、行く先々で、大群衆が熱狂して「天皇陛下、万歳、万歳」を叫び、感激の涙を流す状況が示すとおり、GHQの思惑は完全に裏目に出た。特に、最初に原爆を投下されたあの広島の巡幸の時ですら、7万人もの市民が会場を埋め尽くし、天皇を再び神と仰ぐような、熱狂した万歳の声が会場内外を圧したのである。

焦ったGHQは時の日本政府を動かし、天皇の巡幸を一時中止にさせた。ところが、巡幸が予定されていた各県から再開を求める嘆願書が殺到し山積みとなり、地方議会などでも再開を求める決議が次々に可決されるなど、日本国内の天皇巡幸再開を求める声は益々強くなっていった。何よりも、昭和天皇ご自身が再びマッカーサーと会見し、巡幸の復活を訴えられたことが決定的となり、遂に巡幸は再開された。昭和24年5月のことである。巡幸先の国民が、以前にもまして熟狂的に天皇をお迎えするようになったのは当然の帰結であった。

こうして、昭和天皇の全国巡幸は、足掛け8年半、全行程3万3000kmを踏破して、昭和29年の北海道巡幸をもってひとまず終わった。なんと形容すべきか、言葉が見つからないほど壮絶な覚悟をもって成し遂げられた巡幸であった。昭和天皇の全国巡幸によって、どれだけの国民が慰められ、励まされ、勇気づけられたかは、計り知れない。世界から「20世紀の奇跡」と称賛された日本の戦後復興の精神的原動力は、まさに、天皇の国民を思う無私の御心によって築き上げられたものであった。天皇は、常に変わらず、国民と共に在ったのである。

だが、全国巡幸でたった1ヶ所残されたところがある。いうまでもなく「沖縄県」である。沖縄は、昭和47年に返還されるまで米軍占領下にあり取り残されていた。返還後、昭和天皇は、一日も早い沖縄訪問を強く念願されたが、当時の沖縄には過激派が入っており、皇室反対の運動を展開していた。さらに、昭和50年、沖縄を訪問された皇太子殿下(今上天皇)に対して、火炎瓶が投げつけられるというとんでもない事件も起こった。このため、警備上の問題があるとして、天皇の沖縄訪問はずるずると延期され、実現の目途が立たなかった。

やっと、昭和62年の沖縄国体の際、開会式には天皇が参加するという前例にならって、昭和天皇が行かれることになり、巡幸の最後となる沖縄行きが実現する運びとなった。この時の天皇の喜びは大変なものであったという。

しかし、なんという運命のいたずらか、沖縄訪問を翌月に控えた昭和62年9月、天皇は慢性膵炎(すいえん)に倒れ、悲願の沖縄行きは遂にかなわなかった。手術後は一時体調を回復され、再び沖縄訪問を強く望まれたが、それも束の間、再度病魔に倒れ、昭和64年1月7日崩御された。

昭和天皇の思いを継がれたのは、今上天皇である。今上天皇は、平成5年、歴代天皇としては初めて沖縄を訪問され、戦争に散った御霊を慰霊し、遺族を慰められた。こうして、昭和天皇と今上天皇の二代によって、全国大巡幸は完結したのである。

以上が、巡幸のあらましである。これだけでも、昭和天皇の「常に国民と共に在る」という御心は十分すぎるほど理解できるが、最後にもう一つのエピソードを紹介しておきたい。

昭和63年9月、昭和天皇が大量吐血をして倒れ、病床に臥された時のことだ。症状は重篤で予断を許さなかった。秋であったが雨の日が多く、雨中を一千万人もの国民がお見舞いの記帳に訪れたことは未だ記憶に新しい。

その時のことだ。最後の床につかれた天皇は、お見舞いに上がった当時の宮内庁長官に、「雨が続いているが、稲のほうはどうか?」と御下問されたのである。天皇が稲の作柄を心配されることを奇異に感じる人がいるかも知れないが、これこそが、天皇が常に国民を思っていることの何よりの証拠である。稲(米)は国民の主食であり、その稲を心配されるということは、国民が食に困りはしないかと案じられているということに他ならない。

重い症状に苦しまれ、崩御の直前に至ってもなお、ご自分のことより国民を気にかける存在、それが昭和天皇であった。どこからどう見ても、紛れもなく昭和天皇は常に国民と共に在ったのである。

今上天皇もまた、昭和天皇と同様、常に国民と共に在られる存在である。昭和天皇は、全国巡幸により、主に戦後復興のため、国民を励ますことに力点をおかれていたが、今上天皇は、どちらかといえば、戦没者に対する慰霊と遺族への激励に特色を見ることができる。

皇太子時代の今上天皇が、初めて沖縄を訪間されたのは昭和50年7月17日のことである。当時、沖縄はもとより本土でも左翼過激派や市民団体が、「皇太子訪沖反対闘争」を繰り広げていたため、特に南部戦跡地における慰霊には慎重論や反対論が多かった。しかし、殿下の意志は固く、「まず御霊鎮めが先である」との信念はまったく揺らぐことがなかった。

那覇空港に降り立った皇太子御夫妻は、真っ先に南部戦跡「ひめゆりの塔」に向かわれた。塔の前では、案内役の「ひめゆり同窓会」会長、源ゆき子氏が説明をされていた。その時突然、近くの壕に隠れていた2名の過激派が、皇太子御夫妻めがけて火炎瓶と爆竹を投げつけた。火炎瓶は御夫妻から2mほど離れた献花台を直撃して炎上した。

この時、皇太子御夫妻がとられた行動が半端でなくすごい。目の前で炎が燃え上がり、次に何が起こるか全くわからない状況で、ご夫妻は避難するより先に、案内役の源ゆり子氏を案じ、「源さんはどうした」、「源さんを見てあげて」との声を上げられたのである。人は予期せぬ緊急事態に遭遇し、考えるいとまがない時には必ず「素」の性格が出るものだ。この時の皇太子御夫妻のとられた行動は、まさしく「素」そのものであったことがわかる。つまり、今上天皇は、図らずも皇太子の時から、自分より国民を大切にされる御心をお示しなされたのである。

火炎瓶事件の後、皇太子御夫妻は何事もなかったかのように、「魂魄(こんぱく)の塔」、「健児(けんじ)の塔」を廻られ御霊を慰められた。御夫妻の慰霊に寄せる態度は、他の誰よりもずば抜けて敬虔(けいけん)であったと、当時の新聞が報じている。

(皇太子殿下御夫妻は)南部戦跡の塔で、まさに体を二つに折られ、後ろで頭を下げた側近が途中で上げかかって、あわててまた下げたほど長い拝礼を繰り返された。それぞれの塔のゆかりの人たちの話を、額をつけるようにして聞かれたが、三十度を超える炎天下、お二人ともしたたり落ちる汗をぬぐおうともされなかった。(朝日新聞)

沖縄の夏の過酷さは経験したものでなければわかるまい。周囲を亜熱帯の海に囲まれているから、最高気温こそ30度を少し上回る程度だが、その湿度の高さはものすごい。卑近な例で恐縮だが、私が仕事で沖縄に住んでいた頃、エアコンの効いた室内から一歩外に出れば、眼鏡やサングラスが湿気により一瞬で曇ってしまい、視界を失うほど強烈であったことを思い出す。そのような沖縄の夏空の下、スーツを着用され、したたり落ちる汗をハンカチで拭(ぬぐ)おうともせず長時間の拝礼をされ、さらに遺族の話を聞かれて、その苦労を労(ねぎら)われたのである。

当時の沖縄県知事、屋良朝苗(やら ちょうびょう)氏は、このような皇太子御夫妻の姿を見て、感動の涙を流したという。

今上天皇が、皇太子から天皇に即位されて沖縄を行幸されたのは、前述のとおり平成5年である。この訪問は、歴代天皇として初の沖縄入りであった。この時も、真っ先に南部戦跡に赴かれ、国立沖縄戦没者墓苑に参拝された。沖縄は、先の大戦末期、米軍の侵攻を受け、上陸した敵と日本軍が烈しい地上戦を展開、沖縄県民を含む20万人以上が戦死した悲劇の島である。それはまさに、日本本土の盾となった戦いであった。その沖縄に天皇が初めて訪れ、全ての戦没者の御霊を慰められた。

今上天皇の沖縄行幸によって、昭和天皇の悲願であった全国大巡幸は完結した。

沖縄におけるエピソードが続いたが、今上天皇の慰霊の旅は、もちろん本土においても行われており、毎年行われる地方行幸では、各地の護国神社に幣饅料をお納めになるなど、常に戦没者や遺族に深い思いを寄せておられる。

◎悪の本質

1.地上に悪が存在するのは「御用の悪」として許されているからである。
2.善のみでは力として進展せず、無と同じことである。悪があるからこそ、弥栄発展する。悪の御用とは、善をつくり、力を生み出すことである。
3.地上とは、善、真、悪、偽の平衡の上に成り立ち、新しき平衡になることが新しき神を生むことである。
4.地上人が悪を除こうとするのは、地上的、物質的法則で全てを理解しようとする平面的行為だからである。

◎第5巻 地つ巻 青葉の巻 第8帖

「祝詞は読むものではないぞ、神前で読めばそれでよいと思うているが、それだけでは何にもならんぞ。宣るのざぞ、いのるのざぞ、なりきるのざぞ、とけきるのざぞ、神主ばかりでないぞ、皆心得ておけよ、●(○にゝ)のことは神主に、仏は坊主にと申していること根本の大間違いぞ。」

◎第24巻 黄金の巻

「わかった人ほど、口静かになるぞ。天狗が出てきて三日天下、それも御役、御役御苦労ぢゃなあ。良けりゃ立ち寄り、悪くなれば立ち去るような人民、早う退(の)いて見物して御座れよ。いつも日和見(ひよりみ)していると気の毒出来るぞ。神に使われるのは一通りや二通りの苦労では出来ん。」

『ときあかし版 [完訳] 日月神示』(内記 正時・著、ヒカルランド)