『秘義編「日月神示」神仕組のすべて』

◎霊主体従

「霊主体従」とは、真我が自我に優越している本来のあるべき状態のことであり、その逆が「体主霊従(われよし)」ということである。

◎まつり

日月神示でいう「まつり」とは、「神人合一、神人一体」になることであり、古来、日本で言われてきた「惟神の道」のことである。

◎神の心から乖離(かいり)していく

教会(=宗教組織)が神の心を離れ、人間心となって堕落していくプロセスは日月神示にはっきりと示されている。

◎節分

「霊界物語」によれば、国祖様(国常立大神)が追放された日が節分であり、邪神どもが去り行く国祖様の背中に煎り豆を投げつけ、「煎り豆に花が咲くまで戻って来るな」と叫んだことになっているが、このことと、「鬼は外、福は内と申して、鬼神といたして、この方を押し込めなされた…」とあることは、完全に対応していることがおわかりだろう。

すなわち、「鬼は外」の「鬼」とは、煎り豆を投げつけられた国祖様に他ならず、「福は内」の「福」とは、国祖様を追放した邪神どもがもたらす「体主霊従、我れ善しの福」のことである。

◎日月神示の「大祓詞」

高天原(たかあまはら)、おのころに神祇(かみ)つまります、すめむつカムロギ、カムロミのミコトもちて、千万(ちよろづ)の神祇(かみ)たちを神集(かみつど)へに集へ給ひ、神はかりにはかり給ひて、下津岩根に宮柱(みやばしら)二十(ふと)敷建て高天原に千木高知りて、伊都(いつ)の神宝(みたから)の大御心(おおみこころ)のまにまに千蔵(ちくら)の置蔵(おきくら)におき足らはして、天地祝詞(あめつちのりと)の二十(ふと)祝詞言をのれ、かくのらば神祇(かみ)はおのもおのもの岩戸を押しひらきて伊都(いづ)の千別きに千別き給ひて聞し召さむ、かく聞し召してば、天(あめ)の国顕(うつ)し国共に罪という罪はあらじと科戸(しなど)の風の吹き放つことの如く、朝風夕風(あさかぜゆふかぜ)の吹きはらふ如く、大(おほ)つ辺(べ)に居る大船(おほふね)を舳(へ)ときはなち艫(とも)とき放ちて大海原に押しはなつ事の如く、のこる罪も穢(けがれ)もあらじと祓へ給え清め給ふことを、善(よ)し祓(はら)へ、悪(あ)し祓(はら)へ給ひて弥栄の御代とこそ幸はえ給へ幸はえ給へ。

〇一二三四五六七八九十百千万歳万歳。

(五十黙示録 五葉之巻 補巻 紫金(しきん)之巻 第一帖 昭和36年)

これを便宜的に「ひふみ大祓詞」と呼ぶことにする。内容的には「ひふみ大祓詞」の方が神道のものより明らかに「進化」しており、神道の大祓詞を平面とするなら、「ひふみ大祓詞」は立体に入っていると言い得る。全体の意味は、「罪や穢れ(=体主霊従”われよし”)が一切残らず清められるために、臣民に降りかかる善も悪も偏ることなく調和のうちに共に抱き参らせてくださり、弥栄のミロクの世が永遠(とわ)に栄えますように、栄えますように」
となる。

このように「ひふみ大祓詞」は、善と悪が調和して共に抱き参らせられることが「祓い」であり、永遠に栄える道であると述べており、日月神示の真髄でもある「御用の善」と「御用の悪」を完全に反映したものなのである。これに対して、神道の「大祓詞」の趣旨は、「人民が犯した悪(罪や穢れ)を、神の力によって取り除き消し去ってくださること」を祈念するものであり、いわゆる善悪二元論の立場で、「悪を取り去れば善になる」という旧来どおりの考え方によるものである。これが、神道の「大祓詞」を平面、「ひふみ大祓詞」を立体と表現した理由である。

◎夜明けの巻

「まどいつくるでないぞ、●(○にゝ)に供えられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろうが。この方、喜ぶこと好きぞ、好きのこと栄えるぞ、弥栄(いやさか)えるぞ。信者つくるでないぞ。道は伝えなならんぞ。取り違えせんように、慢心せんように、生まれ赤児(あかご)の心で神示読めよ、神示戴けよ。」

(第12巻 夜明けの巻 第14帖 昭和20年8月10日)

◎「神」になる

真我の「ゝ」と自我の「○」ということになる。「ゝ」+「○」→「●(○にゝ)」となって、「神」になったと言える。

◎月光の巻

「かみかかりはよしなされよ。そなたは学に囚われて御座るぞ。科学を越えて神の学に生きて下されよ。自分で勝手に小さい自分の神をつくっているぞ。」(第34帖)

「そなたのやることはいつも時が外れて御座るぞ。餅つくにはつき時あるぞと知らしてあろうが。時の神を忘れてはならんぞ。春には春のこと、夏には夏のことぢゃ。そなたは御神業ぢゃと申して、他に迷惑かけているではないか。そこから改めねばならん。鼻つまみの御神業はないのであるぞ。そなたはお先真っ暗ぢゃと申しているが、夜明けの前は暗いものぞ。暗い闇の後に夜明けが来ることわかっているであろうが、神はすべてを見通しであるから、すぐのおかげは小さいぞ。利子つけた大きなおかげを結構に頂いて下されよ。」(第37帖)

「そなたは一足飛びに二階に上がりたい気持が抜けない。何事も一段ずつ、一歩ずつ進まねばならん。それより他に進み方はないのぢゃぞ。」(第40帖)

「そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心で祈り願うことでないぞ。実行せねばならん。地上人はモノとしての行動をしなければならんぞ。口と心と行(おこない)と三つ揃わねばと申してあること、忘れたか。」(第44帖)

「そなたは行き詰まって苦しんで御座るなれど、それは間違った道を歩んで来たからぞ。行き詰まりは有り難いぞ。省みる時を与えられたのぢゃ。」(第47帖)

「そなたは自分は悪くないが周囲がよくないのだ、自分は正しい信仰をしているのだから、家族も知友も反対する理由はない、自分は正しいが他が正しくないのだから、正しくない方が正しい方へ従って来るべきだと申しているが、内にあるから外から近寄るのだと申してあろうが。」(第53帖)

◎シントー・アート

考えようによっては、天明の残した「シントー(=神道)・アート」とは、天明が渇望していた「最終神示」に代わるもので、文字どおり天明が持って生まれた画の才能を遺憾なく発揮した「最後の神業」だったと言えるのかもしれない。私はこれを、晩年の天明に神が与えた天佑だったと思いたい。

◎「月光の巻」で見つかる、あまりにも人間臭い神示

「そなたはなかなかに立派な理屈を申すが、理屈も必要ではあるが、沫(あわ)のごときもの、そなたの財産にはならんぞ。」(第55帖)

「そなたはいつも孤独、そなたの不運は孤独からぢゃ。友をつくりなさい。」(第56帖)

「そなたは失業したから仕事を与えてくれと申しているが、仕事が無くなってはおらんぞ。いくらでもあるではないか。何故に手を出さんのぢゃ。」(第57帖)

◎日月神示の全体構造

【日月神示上巻】
○基本12巻…第1巻~第12巻…神仕組の基本計画書
○解説5巻…第13巻~第17巻…基本12巻の解説編
○ミロク6巻…第18巻~第23巻…ミロクの世の型詳細

【日月神示下巻】
○道しるべ7巻…第24巻~第30巻…地上現界人民への道しるべ
○奥義7巻…五十黙示録全7巻(他に補巻1巻を含む)…日月神示の奥義、宝
○天明1巻…補巻「月光の巻」…闇夜の人民を照らす月の光、天の明かり(=天明)

『秘義編「日月神示」神仕組のすべて』(内記正時・著、ヒカルランド)