発達障害と向き合って

私は、広汎性発達障害という目に見えないハンディを抱えている。これまで、あらゆる面でつまずきの多い人生だったが、ある一人の精神科医師との出会いで、自分の生きづらさが軽くなってきた。

一昨年の春。希望を抱いて、鹿児島県の重症児施設に赴任した。新生活に期待と不安を抱きながら、見知らぬ地に足を踏み入れる。

しかし、入職後は苦難の日々だった。新人研修を忘れて帰る、利用者の怪我けがにつながるミスをするなど、失敗の連続。また、同じ失敗を繰り返してしまいがちで、叱られてばかりの毎日。

やがて、うつ状態になり、仕事にやる気が起きなくなった。身体にも不調が現れ、職場に着いた瞬間、めまいがするようになった。

そんな中、私はある日、仕事中に上司から呼び出される。「あなたは、利用者全員に気が配れていないのに加え、利用者の意思がうまく読めていない。言葉で意思表示できない利用者に代わって言いますが、あなたには重症児の人の支援を任せられない!辞めてもらいたい!」クビの宣告だった。わずか1か月半で、退職に追い込まれてしまった。

大学生の頃も、友達ができにくい、実習中心の授業でミスを連発するなどのつまずきが目立っており、「他の人にできることが、なぜ私にはできないのだろう…。」と、悶々もんもんとしていた。大学の授業で発達障害のことを知り、「自分も当てはまるのではないか…」と薄々感じていたが、当時は病院受診をためらっていた。しかし、もうこれ以上、苦しみたくなかった。「自分の本当のことが知りたいです。白黒つけたいです!」藁わらにもすがる思いで、大学病院の精神科に足を踏み入れた。

待合室のソファに座っていると、私の前に一人の男性医師が現れた。40歳代前半くらいの白髪交じりで、とても優しそうな眼差しの先生。その先生が担当医・J先生だった。

「竹中さん。」名前を呼ばれ、私は診察室に入っていく。

前職を退職になったばかりで、身も心もズタズタに傷ついていた私は、これまでの自分のつまずきを、涙ながらにJ先生に打ち明けた。J先生は、穏やかな表情で聞いてくださっていた。また、私の仕事上のつまずきを元上司が紙に書いてくださっており、それもJ先生にお見せした。

問診の他に脳のCTや知能検査などを受け、はっきりとした診断が出るまで約1か月かかった。そして、運命の2011年7月6日。

「あなたは、広汎性発達障害・アスペルガー症候群の傾向がありますね。」

J先生からそう告げられる。そして、「今まで、辛つらかったでしょう…。」と言われ、大粒の涙がこぼれそうになった。

その後、J先生から「残念ながら発達障害は、生まれつきの障害のため、完全に治すことはできません。前職のような変化の大きい仕事は避け、事務など比較的ルーティン化した仕事を選んだ方がいいですね。ただ、普段の生活において、メモを取るなどの工夫をすることによって、つまずきを減らしていくことは可能です。もしよければ、生きづらさを軽減するために、月一回話し合ってみませんか?」と勧められる。私は、今後のことも考え、迷いもなく首を縦に振った。

その日を境に、月一回の先生とのカウンセリングが始まった。毎回、自分のつまずきやパニック等を紙にまとめ、それを基に先生と話し合っている。診断を受けてから間もない頃、「努力不足」などと家族から言われたり、就職先が決まらないことで家族と喧嘩けんかになったりして、精神的に不安定になることが度々あった。今までに、受診日を何度早めていただいたか知れない。そんな時、J先生は「今日みたいにどうしても苦しい時は、いつでも受診していいですよ。」と、優しい言葉をかけてくださった。ただでさえ辛かった私は、J先生のその言葉がすごく支えになり、患者一人一人としっかり向き合ってくださっているJ先生に大変魅力を感じた。

その他、再就職に向けて障害者手帳用の診断書を書いていただいたり、私のハンディについて家族に説明をしてくださったりと、J先生にはたくさんお世話になった。

そして、昨年6月。ある病院に事務職として、障害者枠で採用された。月一回受診のおかげで、仕事やコミュニケーションでのポイントが徐々に見えてきて、前職のような事態を起こすことなく、無事に入職一年を迎えることができた。仕事上、お医者さんの白衣姿を目にすることが多くなったが、その姿から、私たち患者のために、日夜研究や診察に奮闘されているJ先生の姿が思い浮かぶ。

仕事に余裕ができたら、J先生に完全に近づくことは難しいが、私と同じ発達障害で悩んでいる人達の力になりたい。

◆第32回「心に残る医療」体験記コンクール [一般の部・読売新聞社賞]
「発達障害と向き合って」 竹中 晃子(たけなか こうこ)(29)熊本県

(2014年3月15日 読売新聞)