『代表的日本人』

◎西郷隆盛の言葉(P.22)
「天を相手にせよ。人を相手にするな。すべてを天のためになせ。人をとがめず、ただ自分の誠の不足をかえりみよ」

◎西郷隆盛(P.24)
禅により抑えようとした「情のもろさ」こそ西郷を最後の破滅に導くことになるのです。

◎朝鮮問題(P.28)
ただ征服だけを目的として戦争を起こすことは、西郷の良心に反しました。東アジアの征服という西郷の目的は、当時の世界情勢をみて必然的に生じたものでした。日本がヨーロッパの「列強」に対抗するためには、所有する領土を相当に拡張し、国民の精神をたかめるに足る積極策が必要とみたのでした。それに加えて、西郷には自国が東アジアの指導者であるという一大使命感が、ともかくあったと思われます。

◎朝鮮使節決議の撤回(P.31)
岩倉が大久保や木戸とともに世界巡察の旅から帰国しました。彼らは、文明をその中心地で眺め、文明が快適な暮らしと幸福とをもたらす実状を見てきたのです。彼らは外国との戦争など考えてもいませんでした。西郷がパリやウィーンの生活を想像もできないのと同じであります。こうして岩倉たちは一致して、留守中の閣議の決定を覆すために全力を傾けました。ついに朝鮮使節の決議は1873年11月28日に撤回されました。

征韓論を抑えたことにより政府の積極策はすべて消え、その後の政策はいずれも支持者より「内治改良」と呼ばれた線で進められました。そうして国は文明開化一色となりました。

それとともに、真のサムライの嘆く状況、すなわち、手のつけられない柔弱、優柔不断、明らかな正義をも犠牲にして恥じない平和への執着などがもたらされました。

「文明とは正義のひろく行われることである、豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」これが西郷の文明の定義であります。そのとき以来、西郷のいう意味での文明は、ほとんど進歩を見せなかったのではないでしょうか。

◎西郷の性格(P.39)
西郷は人の平穏な暮らしを、決してかき乱そうとはしませんでした。ひとの家を訪問することはよくありましたが、中の方へ声をかけようとはせず、その入り口に立ったままで、だれかが偶然出て来て、自分を見つけてくれるまで待っているのでした。

◎西郷の考え(P.40)
西郷は人間の知恵を嫌い、すべての知恵は、人の心と志の誠によって得られるとみました。心が清く志が高ければ、たとえ議場でも戦場でも、必要に応じて道は手近に得られるのです。常に策動をはかるものは、危機が迫るとき無策です。

◎西郷の言葉(P.42)
「機会には二種ある。求めずに訪れる機会と我々の作る機会とである。世間でふつうにいう機会は前者である。しかし真の機会は、時勢に応じ理にかなって我々の行動するときに訪れるものである。大事なときには、機会は我々が作りださなければならない」

◎「生財」と題された西郷の文章(P.46)
徳は結果として財をもたらす本である。徳が多ければ、財はそれにしたがって生じる。徳が少なければ、同じように財もへる。財は国土をうるおし、国民に安らぎを与えることにより生じたものだからである。小人は自分を利するを目的とする。君子は民を利するを目的とする。前者は利己をはかってほろびる。後者は公の精神に立って栄える。生き方しだいで、盛衰、貧富、興亡、生死がある。用心すべきでないか。

世人は言う。「取れば富み、与えれば失う」と。なんという間違いか!農業にたとえよう。けちな農夫は種を惜しんで蒔き、座して秋の収穫を待つ。もたらされるものは餓死のみである。良い農夫は良い種を蒔き、全力をつくして育てる。穀物は百倍の実りをもたらし、農夫の収穫はあり余る。ただ集めることを図るものは、収穫することを知るだけで、植え育てることを知らない。賢者は植え育てることに精をだすので、収穫は求めなくても訪れる。

徳に励む者には、財は求めなくても生じる。したがって、世の人が損と呼ぶものは損ではなく、得と呼ぶものは得ではない。賢者はほどこすために節約する。自分の困苦を気にせず、ひとの困苦を気にする。こうして財は、泉から水が湧き出るように、自分のもとに流れ込む。恵みが降り注ぎ、人々はその恩沢に浴する。これはみな、賢者が、徳と財との正しい関係を知り、結果でなく原因を求めるからである。

◎封建制(P.53)
思うに代議政体は、一種の進んだ警察組織です。悪党や泥棒は、それでうまく抑えられるが、どんなに大勢の警察をもってしても、一人の聖人または一人の英雄に代わることはできません。「それほど悪くもなけれぱ、それほど良くもない」というところが、この組織についていえることでしょう。封建制にも欠陥はありました。その欠陥のために立憲制に代わりました。しかし鼠を追い出そうとして、火が納屋をも焼き払ったのではないかと心配しています。封建制とともに、それと結び付いていた忠義や武士道、また勇気とか人情というものも沢山、私どものもとからなくなりました。ほんとうの忠義というものは、君主と家臣とが、たがいに直接顔を合わせているところに、はじめて成り立つものです。その間に「制度」を入れたとしましょう。君主はただの治者にすぎず、家臣はただの人民であるにすぎません。もはや忠義はありません。憲法に定める権利を求める争いが生じ、争いを解決するために文書に頼ろうとします。昔のように心に頼ろうとはしません。献身とそれのもつ長所は、つかえるべきわが君主がいて、慈しむべきわが家臣があるところに生じるのです。封建制の長所は、この治める者と治められる者との関係が、人格的な性格をおびている点にあります。

◎上杉鷹山(P.56)
感性豊かな人間は、当然、宗教的な人間でもありました。藩主になる日のこと、鷹山は次の誓文を、一生の守護神である春日明神に送って献げました。

一、文武の修練は定めにしたがい怠りなく励むこと
二、民の父母とたるを第一のつとめとすること
三、次の言葉を日夜忘れぬこと
 贅沢なければ危険なし
 施して浪費するなかれ
四、言行の不一致、賞罰の不正、不実と無礼、を犯さぬようつとめること

◎真の英雄(P.63)
その後、大事な家臣らと会い、自分の政治が天意にかなってはいないのか、と彼らに尋ねました。執政たちは「いいえ」と言いました。廻村横目も一人残らず「いいえ」と答えました。隊長も隊士も「いいえ」です。「異口同音」に「いいえ」です。藩主は満足しました。民の声は神の声であります。腹は決まりました。

藩主は七人の重臣を面前に呼び、判決を言い渡しました。そのうちの五人は所領の半分を没収され、無期閉門となりました。首謀者の二人は、サムライの作法にしたがって、名誉ある自決の方法のハラキリ、切腹を言いつかったのであります。

こうして保守派と不平派は一掃され、藩政は大きく好転しはじめました。これが済むまでは、どんな改革も完成ではありません。若き藩主は、厚い信仰心と豊かな感性とを有するにもかかわらず、真の英雄でした。

◎社会および道徳の改革(P.67)
東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります。東洋の思想家たちは、富は常に徳の結果であり、両者は木と実との相互の関係と同じであるとみます。木によく肥料をほどこすならぱ、労せずして確実に結果は実ります。富をえるのは、それによって皆「礼節を知る人」になるためでした。

◎藩主は、民の幸福のための配慮に手抜かりのないように気をつけました。良種の馬を導入し、池や川にはコイやウナギを飼い、他国から鉱夫や織工を呼び、商業上の支障はすべて取り除き、領内にある資源はことごとく、あらゆる手をつくして開発につとめました。これと併せて、民のなかの怠け者を絶滅し、役に立つ働き者に変えました。それにより、かつては全国でもっとも貧しい土地であったところが、鷹山の晩年には、模範的な物産地に化し、今もそれが継続しているほどの変化を招きました。

◎鷹山の家庭観(P.74)
鷹山の家庭観は、実に立派でした。聖人のいう「自己を修める者にしてはじめて家を治め、家を整える者にしてはじめて国を統治できる」との言葉を文字どおり実行しました。

◎上杉鷹山から孫娘への手紙(P.75)
鷹山の子供の育て方をみるために、孫娘たちに書き与えた、数多くのうるわしい手紙のなかから、ここに一通を紹介しましょう。その手紙は、夫と江戸で生活するために、両親の屋敷を出ようとする年長の孫娘に与えたものです。

「人は三つの恩義を受けて育つ。親と師と君である。それぞれ恩義はきわまりないが、とりわけ他にまさるは親の恩である。この世に生をうけたのは親の恩による。この身体が親の一部であることを決して忘れてはならない。親につかえるときには、偽りない心でふるまうようにせよ。もし、あやまちを犯しても、真心さえあるならぱ、大きなあやまちではない。知恵不足のためにできないとは思うな(その不足は真心がおぎなう)。

領内を治めることは、とても及ばぬように考えるかもしれない。しかし、領内を治めるもとは、よく整った家にあると思うがよい。よく整った家は、妻の夫に対する関係が、きちんとしなくては成り立たない。水源が濁っている川から、どうしてきれいな流れを期待できようか!

年若い女性である以上、着物のことに心がとらわれやすいのは当然である。しかし教えられた倹約の習慣を忘れるではない。養蚕をはじめ女の仕事に励み、同時に和歌や歌書に接して、心を磨くがよい。文化や教養は、それだけを目的にしてはならない。すべての学問の目的は徳を修めることに通じている。そのため、善を勧め悪を避けるように教えてくれる学問を選ぶがよい。

◎二宮尊徳の少年時代(P.81)
尊徳(徳を尊ぶ人)ともいわれる二宮金次郎は、天明7(1787)年に生まれました。16歳のとき、尊徳と二人の弟は親を亡くしました。親族会議の結果、あわれにも一家はひき離されて、長男の尊徳は、父方の伯父の世話を受げることになりました。伯父の家にあって、この若者は、できるだけ伯父の厄介になるまいとして、懸命に働きました。尊徳は一人前の大人の仕事のできないことを嘆き、若年のために日中に成し遂げられなかった仕事を、いつも真夜中遅くまでつづけて仕上げました。そのころ尊徳の心には、古人の学問に対して「目明き見えず」、すなわち字の読めない人間にはなりたくないとの思いが起こりました。そこで孔子の『大学』を一冊入手、一目の全仕事を終えたあとの深夜に、その古典の勉強に熱心につとめました。ところが、やがて、その勉強は伯父に見つかりました。伯父は、自分にはなんの役にも立たず、若者自身にも実際に役立つと思われない勉強のために、貴重な灯油を使うとはなにごとか、とこっぴどく叱りました。尊徳は、伯父の怒るのはもっともと考えて、自分の油で明かりを燃やせるようになるまで、勉強をあきらめました。

こうして翌春、尊徳は、川岸のわずかな空き地を開墾して、アブラナの種を蒔き、休日をあげて自分の作物の栽培にいそしみました。一年が過ぎ、大きな袋一杯の菜種を手にしました。自分の手でえた収穫であります。誠実な労働の報酬として「自然」から授かったものであります。尊徳は、この菜種を近くの油屋へ持参し、油数升と交換しました。尊徳は今や、伯父のものによることなく、勉強を再開できると考え、言いようのない嬉しさを感じていました。

勇んで尊徳は夜の勉強を再開しました。自分の、このような忍耐と勤勉とに対し、伯父からは、ほめ言葉があるのではないかと、少しは期待した面もありました。しかし、違った!伯父は、おれが面倒を見てやっているのだから、おまえの時間はおれのものだ、おまえたちを読書のような無駄なことに従わせる余裕はない、と言いました。尊徳は、今度も伯父の言うことは当然だと思いました。言い付けにしたがって、一日の田畑の重い労働が終わったあとも、むしろ織りやわらじ作りに励みました。それ以後、尊徳の勉強は、伯父の家のために、毎日、干し草や薪を取りに山に行く往復の道でなされました。

休みの日は自分のものであっても、遊んで過ごしてしまうことはありませんでした。アプラナの経験は、尊徳に熱心に働くことの価値を教えました。尊徳は、もっと大規模に同じ経験を試みようと望みました。最近の洪水により沼地に化したところを村のなかで見つけました。そこは、自分の休みを有益な目的に使える絶好な場になると思いました。沼から水をくみ出し、底をならし、こぢんまりした田圃になるようにしました。その田に、いつも農民から捨てられている余った苗を拾ってきて植え、夏中、怠らずに世話をしました。秋には、二俵もの見事な米が実りました。一人の孤児が、つつましい努力の報酬として、人生ではじめて生活の糧をえた喜びのほどは、容易に想像されます。この秋、尊徳がえた米は、その後の波乱に富んだ生涯の開始にあたり、その資金になりました。尊徳は真の独立人であったのです!

「自然」は、正直に努める者の味方であることを学びました。尊徳の、その後の改革に対する考えはすべて、「自然」は、その法にしたがう者には豊かに報いる、という簡単なことわりに基づいていたのであります。

数年後、尊徳は伯父の家を去りました。自分で見つけて改良した村のなかの不用の荒地から、みずからの手で収穫したわずかの米をたずさえて、今や、多年住む人のなかった両親の家に戻りました。尊徳が、忍耐と信念と勤勉とにより、混乱を整え、荒地を沃地に変えようとする試みを妨げるものはなにもありませんでした。山の斜面、川岸、道端、沼地などの不毛な土地はことごとく、尊徳には富と生活の糧を与えるものとなりました。何年もたたないうちに、尊徳はかなりの資産を所有するようになり、近所の人々すべてから、模範的な倹約家、勤勉家として仰がれる人物になりました。尊徳は、なにごとも自力で克服しました。また他人が自力で克服する手助けは、常にいとわず致しました。

◎能力の試練(P.86)
「金銭を下付したり、税を免除する方法では、この困窮を救えないでしょう。まことに救済する秘訣は、彼らに与える金銭的援助をことごとく断ち切ることです。かような援助は、貧欲と怠け癖を引き起こし、しぱしば人々の間に争いを起こすもとです。荒地は荒地自身のもつ資力によって開発されなけれぱならず、貧困は自力で立ち直らせなくてはなりません。」

「殿には、この痩せた地域からは相応のあがりで足れりとなし、それ以上を望まないでいただきます。もし一反の田から二俵の米が取れるなら、一俵は人々の生活を支えるために用い、残る一俵は、あとの耕地を開墾する資金として使わなくてはなりません。このような手段によってのみ、わが実り豊かな日本は、神代に開かれたのです。当時はみな荒地でした。外からいかなる援助もなく、自分自身の努力により、土地そのものの持つ資源を利用して、今日見られるような田畑、庭、道路、町村が成ったのです。仁愛、勤勉、自助これらの徳を徹底して励行してこそ、村に希望がみられるのです。もしも誠心誠意、忍耐強く仕事に励むならぱ、この日から10年後には、昔の繁栄を回復できるのではないかと考えます」

なんと大胆にして、なんと経済的な計画でありましょう!このような計画に反対を喝える人がいるでしょうか。道徳力を経済改革の要素として重視する、そのような村の再建案が、これまでに提出されたことは、まずありません。これは「信仰」の経済的な応用でありました。ここに真正の日本人があったといえます。

◎土地と人心の荒廃との闘い(P.88)
尊徳の「土地と人心の荒廃との闘い」については、ここではくわしく記しません。そこには権謀術策はありませんでした。あるのは、ただ魂のみ至誠であれぱ、よく天地をも動かす、との信念だけでした。ぜいたくな食事はさけ、木綿以外は身につけず、人の家では食事をとりませんでした。一日の睡眠はわずか2時間のみ、畑には部下のだれよりも早く出て、最後まで残り、村人に望んだ苛酷な運命を、みずからも共に耐え忍んだのでした。

部下の評価にあたっては、自分自身に用いたのと同じように、動機の誠実さで判断しました。尊徳からみて、最良の働き者は、もっとも多くの仕事をする者でなく、もっとも高い動機で働く者でした。

◎尊徳の仁術(P.93)
尊徳には、いかなる地域でも、その完全な復興は、ただ土地の肥沃の回復を意味するだけではありません。「欠乏にそなえて10年分の備蓄」が必要とみました。尊徳は、「9年分の備蓄のない国は危ない。3年分の備蓄のない国はもはや国とはいえない」との中国の聖賢の言葉に文字どおり従ったのです。わが農民聖者の見るところでは、現在堂々と存在している国々のいずれも「もはや国とはいえない」ことになります。

しかし、この備蓄がととのう前に飢饉が襲ったのです。1833年という年は、東北地方全域にとり大災難の年でした。尊徳は夏、ナスを口にして、その年の不作を予言しました。秋ナスのような味が強くしたので、明らかに「太陽が、すでにその年の光を使いつくした」しるしであると告げました。尊徳はただちに、その年の米の不足を補うために、一軒に一反の割合でヒエを蒔くように村人に命じました。それは指示どおり実行されました。次の年、近国はことごとく飢饉に見舞われたにもかかわらず、尊徳配下の三村では、一軒なりとも食糧の不足で苦しむところは出ませんでした。「誠実の人は、前もってことを知ることができる」とあるように、わが指導者は予言者でもあったのです。

◎相談(P.97)
尊徳は、個人的な利益をもくろむ人の相談には、いつもあまり気乗りがしませんでした。

◎本当の財産(P.98)
尊徳の目には、あくどい手段で獲得した財産は本当の財産ではありません。「自然」の正しい法則にしたがって、「自然」から直接に与えられたものだけが、本当に自分のものなのです。

◎禍福(P.99)
孔子の書物に「禍福は、向こうから訪れるのではなく、ただ人間が、それを招くものである」と記されているではありませんか。

◎尊徳の「信念のテスト」(P.99)
わが先生(尊徳)は、近づきやすい人ではありませんでした。はじめて会う人はその身分にかかわりなく、例の東洋流の弁明「仕事が忙しくて」と言われ、きまって門前払いにあいました。それに根負けしない人だけが、話を聞いてもらうことができました。来訪者の忍耐がきれると、いつも「私が助ける時期には、まだいたっていないようだ」とわが先生は語りました。

尊徳から親交を交えるためには、常にたいへんな努力を要しましたが、いったん与えられると、これほど尊いもの、また永続するものはありません。不誠実でふまじめな人間は相手にされませんでした。そのような人間は、「天」にも天理にも反しているからです。いかに尊徳の力を用い、いかなる他の人の力をもってしても、そのおちいっている不幸や堕落から救いだすことはできません。その人たちに対しては、まず「天地の理」と和合させます。そのあと人間による必要不可欠な援助なら、なんでも提供されました。

「キュウリを植えればキュウリとは別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
「誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。策術は役に立たない」
「一人の心は、大宇宙にあっては、おそらく小さな存在にすぎないであろう。しかし、その人が誠実でさえあれば、天地も動かしうる」
「なすべきことは、結果を問わずなされなくてはならない」

これらのことを述べたり、またこれに類する多くの教訓によって、尊徳は、自分のもとに指導と救済とを求めて訪れる多数の苦しむ人々を助けました。こうして尊徳は、「自然」と人との間に立って、道徳的な怠惰から、「自然」が惜しみなく授けるものを受ける権利を放棄した人々を、「自然」の方へとひき戻しました。

◎自然(P.105)
「自然」と歩みを共にする人は急ぎません。一時しのぎのために、計画をたて仕事をするようなこともありません。いわば「自然」の流れのなかに自分を置き、その流れを助けたり強めたりするのです。それにより、みずからも助けられ、前方に進められるのです。大宇宙を後盾にしているため、仕事の大きさに驚くこともありません。

◎道徳(P.107)
「最初に道徳があり、事業はその後にあるのであります。後者を前者に先立ててはなりません。」

◎学校教育~内村鑑三の言葉(P.112)
まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされたのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い。

さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。私どもの頭脳が二葉しかないことには変わりなく、沢山はないのである。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。これが私どもの昔の教育制度のすぐれた特徴の一つだった。

「歴史」「詩」「礼儀作法」もある程度教えられたが、おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。観念的、あるいは神智学的、神学的な道徳は、私どもの学校では決して強いられなかった。

さらに私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けるようなことは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることのできないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなくてはならない、と教師は信じていたように私には思われるのだ。それだから教師は、私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死に終わる心配もなかった。

◎中江藤樹(P.116)
11歳のときに早くも孔子の『大学』によって、将来の全生涯をきめる大志を立てました。『大学』には次のように書かれていました。

「天子から庶民にいたるまで、人の第一の目的とすべきは生活を正すことにある。」

藤樹はこれを読んで叫びました。「このような本があるとは。天に感謝する」「聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」藤樹は泣きました。このときの感動を藤樹は一生忘れませんでした。「聖人たれ」とはなんという大志でありましょうか!

◎徳(P.122)
評判になることを、なによりも藤樹は嫌っていました。心が藤樹の王国であり、内なる世界に自分のすべて、いや、それ以上のものがありました。藤樹は「積善」について次のように述べました。

「人はだれでも悪名を嫌い、名声を好む。小善が積もらなければ名はあらわれないが、小人は小善のことを考えない。だが君子は、日々自分に訪れる小善をゆるがせにしない。大善も出会えば行う。ただ求めようとしないだけである。大善は少なく小善は多い。大善は名声をもたらすが小善は徳をもたらす。世の人は、名を好むために大善を求める。しかしながら名のためになされるならば、いかなる大善も小さくなる。君子は多くの小善から徳をもたらす。実に徳にまさる善事はない。徳はあらゆる大善の源である。」

◎学者(P.123)
真の学者とはどういう人か、藤樹の考えはこうです。

「学者とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。

◎中江藤樹という人(P.126)
「先生は、利益をあげることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことである、とおっしゃいます。私ども村人一同、先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます」

◎神経過敏(P.131)
朱子学により、藤樹は、なによりも自己自身の内部への不断の探究を求められました。この神経の細い若者が、自分自身の内部の欠点と弱点とを、たえず反省した結果、神経過敏をつのらせてしまったことは容易にわかります。

◎道と法(P.134)
藤樹が、人為の「法」と外在的な「真理(道)」とを明確に分けていたことは、次の有名な言葉に示されています。

「道と法とは別である。法は時により、中国の聖賢によっても変わる。わが国に移されればなおさらである。しかし道は、永遠の始めから生じたものである。徳の名に先立って、道は知られていた。人間の出現する前に、宇宙は道をもっていた。人が消滅し、天地がたとえ無に帰した後でも、それは残りつづける。しかし法は、時代の必要にかなうように作られたものである。」

◎徳(P.135)
徳の高さに達するための藤樹の方法は、非常に簡単でした。こう言いました。

「徳を持つことを望むなら、毎日善をしなければならない。一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。昼が長くなれば夜が短くなるように、善をつとめるならばすべての悪は消え去る。」

◎願い事(P.136)
藤樹は、「願い事」のような欲望は、どんなものでも嫌いでありました。藤樹の信仰は、正しくありたいとの願いは除き、他のあらゆる「願い事」に対しては、めずらしいほど無縁でありました。

◎手紙(P.137)
仏教の信仰から離れ、儒教にかわった息子のことを悲しんでいる一人の母親に、藤樹は次のような手紙を書き送っています。

「後生を大切にお考えになられることはよくわかります。しかし、後生が大切なら、今生はもっと大切であります。今生に迷うなら、後生にも迷いつづけることになりましょう。…このように明日もわからぬはかない人生にありましては、わが胸の内なる仏をいつも拝する態度が、もっとも大切であります。」

◎感化(P.139)
村人は次のように答えるでありましょう。

「この村の近くでも、父は子にやさしく、子は父に孝養をつくし、兄弟はたがいに仲良くしています。家では怒声は聞かれず、だれもが穏やかな顔つきをしています。これはすべて藤樹先生の教えと後世に遺された感化の賜物です。私どもだれもが、先生の名は感謝をもって崇(あが)めています」

現代の私どもは、「感化」を他に及ぼそうとして、太鼓を叩き、ラッパを鳴らし、新聞広告を用いるなど大騒ぎをしますが、真の感化とはなんであるか、この人物に学ぶがよろしいでしょう。バラの花が、自分の香を知らぬと同じく、藤樹も自分の影響を知りませんでした。

かつて藤樹が言ったことがあります。

「谷の窪にも山あいにも、この国のいたるところに聖賢はいる。ただ、その人々は自分を現さないから、世に知られない。それが真の聖賢であって、世に名の鳴り渡った人々は、とるに足りない」

『代表的日本人』(内村鑑三・著/鈴木範久・訳、岩波文庫)