吉田松陰『留魂録』

◎天保11年当時、11歳の吉田大次郎は兵学教授見習として、明倫館で山鹿流兵学の講義を受け持っていたが、藩主慶親は、この少年がどのような話をするのだろうと興味を抱いた。大次郎がこのとき藩主の前で講じたのは、山鹿素行の『武教全書』戦法篇のうちの三戦の節である。

「兵法に曰く、先づ勝ちて後に戦ふと。是は孫子軍形の篇に出てをれり。言ふ心は、敵に勝つ軍(いくさ)は如何様にして勝つかなれば、戦はぬ先きにまず勝ちてをりて、其の後に戦ふなり。それ故、百たび戦ひて百たび勝つなり。しかるを軍の仕様がおろかなれば、勝つべき道理をもわきまへず、負くべきわけをもしらず、何の了簡もなしに先づ戦ふなり。これは戦を以て勝たんとするによろしからず、多くは敗るるものなり…」(P.128)

◎憂国の詩人吉田松陰における生涯の重要部分は、旅にあけくれている。きびしく自己を律する彼にとって、日本を駆けめぐる長い旅程こそが、変転する青春のすべてだった。そしてついには国禁を犯し海外へ出ようとする壮大な夢の挫折が、彼の死期を早める原因ともなるのである。

後年、松陰は多くの門下生を旅に送り出したが、未来への的確な予見に資する情報を得るための「飛耳長目(ひじちょうもく)」ということも教え、ただならぬ情勢の観察を怠らないように助言する一方では、酒も飲むべし、詩も賦(ふ)すべしとすすめることを忘れなかった。旅の本質をだれよりもよく知っていたからであろう。

松陰は、九州への初旅に出てから、刑死するまでの約十年間に、亡命後の帰国および囚人として江戸-萩間を往復護送されたのを除いて、八度の旅を経験している。それは長崎から青森まで、日本列島をほぼ二周するほどの距離である。(P.157)

◎12月17日から始まった講義は、その後付近の若い者も加わって、翌年6月13日で『孟子』全篇を講じ終えた。野山獄での開講いらいちょうど1年ぶりである。講義を終わって5日後の18日に、松陰は全稿をまとめて、ここに『講孟箚記(こうもうさっき)』が成立した。松陰はこれを書き上げたあとで「箚記(さっき)」を改め「余話」としたので、遺稿としては『講孟余話』として知られている。

その跋文での松陰の解説によれば「箚」は針であって、文章を精読する場合、針を皮膚に刺し鮮血がほとばしるように明確に理解するのでなければならぬが、これは孟子を講じて「随話随録」したものであるから「箚記(さっき)」ではなく単なる「余話」にしかすぎないとしている。それには謙遜の意味もあろうが、反面絶大な自信にも裏付けられている。

『講孟余話』で、松陰は孟子への共感を示すかと思えば、まるで罵るように批判を加えている部分もある。いわば孟子の説をまないたに載せて、松陰流に料理してみせ、独特の世界観を展開したものだ。孟子を通じて、おのれの「志」を語ったのだといえる。(P.179)

◎「夫れ天地の外をつつみ、地往くとして天を戴かざる所なし。然れば各々其の土地風俗の限る所、其地なりなりに天を戴けば、各々一分の天下にて互に尊卑貴賎の嫌(きらい)なし」

自分の生まれた土地がどのような僻地であろうと、それに劣等感を抱く必要はなく、その場所で励めばそこが「華」だというのである。松陰が松下村塾の教育理念としてかかげた華夷の弁とは、松本村という辺境に英才教育の場を興そうとする壮大な意図をうたったものだ。そして、長門国が天下を奮発震動させる奇傑の根拠地になろうという松陰の期待と予言は、彼の死後において、ついに実現されたのである。(P.189)

◎松陰の性格について、天野は「怒ったことを知らない。人に親切で、誰れにでもあっさりとして、丁寧な言葉使(づかい)の人であった」と証言している。「諸友に語ぐ」をはじめ、松陰が門下生に与えた文章を読むと、教えるというより諄々と説き、訴える調子が目立つ。

松陰は門下生たちを対等の友人として交わるように指導すると同時に、みずからも友として彼らの中に入っていった。内面に激しく情念を燃やしながら、人間に対しては限りなくやさしく、怒らず、そのモットーとする「至誠」をかかげて接近していく。松陰の感化力の秘密はそのようなところにあったのかもしれない。「講義は上手であった」とも天野は言う。このようにして、すぐれた教師としての松陰の像が浮かんでくるのである。(P.196)

◎自分の手許を離れていく塾生たちに、松陰はかならず「送叙(そうじょ)」を贈って励ました。この送叙は単なる激励文ではない。自分との出会いを語り、本人の性格、資質の長所を教え、憂うべき時勢を述べて、それに対処すべき志士の心構えを説き、そして訣別の言葉でしめくくるのである。いくらかは時間をかけて推敲したらしい心のこもった名文となっている。(P.200)

~史伝・吉田松陰~

『吉田松陰 留魂録』(古川薫・全訳注、講談社学術文庫)