『アメリカのスーパーエリート教育』

◎天才児は何万人に一人の割合で必ず生まれてくる。その才能の芽を摘むことなく伸ばしてやらなければならない。ボトムアップ教育しかない日本は、天才児は「出る杭は打つ」でつぶしてしまう。というのも、ボトムアップ教育では「すべてに平均的に」できる生徒を「優秀」とするからである。天才児は一つの分野で突出した能力を発揮するが、ほかの科目は平均に遠く及ばないという傾向があるので、日本では「劣等生」か「引きこもり」として扱われてしまう。アメリカはプルアップ教育があるから、天才児も「出る杭は伸ばす」で能力を発揮できるのである。

◎なぜボーディング(全寮制)スクールなのか
1.子供の教育、特に精神教育、情操教育のためには、子供が甘えるのが当然の親元から引き離し、規律の厳しい環境に置く必要がある。(規律に裏付けされた強い個の確立)
2.教育のためには子弟を両親の富裕な環境から遠ざける必要がある。(消費文明と物質主義への批判精神の育成)
3.子供を都会の退廃からできるだけ引き離す必要がある。
4.しっかりと勉強させ、スポーツや文化・芸術活動に打ち込ませ、同時に社会奉仕精神をたたき込むためには週7日、1日24時間の密着教育が必要である(倫理観、歴史観、宗教観、奉仕精神の確立と刷り込み)

◎ボーディングスクールでは学期の始まる9月から学期の終わる6月までは両親と消費文明から隔絶される状況になる。人間とは弱いもので消費文明に汚染されると想像力と独創性がなくなる。身体と精神と頭脳を鍛えるにはハングリーな状態に置くのが一番である。

◎ウィリストン・ノーザンプトン・スクールのデニス・グラブズ校長の話
「当校の教育の目的は生徒一人ひとりがほかの生徒とは違うのだということを認識してもらうことにある。学校教育の一番重要な目的の一つは、生徒一人ひとりが自分自身のユニークネス(独自性)を見つけることを助けることにある。」

◎ボーディングスクールでは一般社会よりもさらに厳しいルールが課せられている。この学校の説明書には、校則違反を発見した場合には直ちにその現場から遠ざかり、共犯者とみなされないように行動することが各生徒の責任であると明記されている。筆者はこのことからボーディングスクールでは、なるほど真の意味でのエリートの精神を教えているなと思った。これは「社会の指導者たるものけっして疑われるような状況に自らを置いてはいけない」という意味である。

◎学習障害児(LD)のためのボーディングスクール~LDは特異な才能を持った子供
日本では、「落ちこぼれ」か「問題児」と言う。しかしアメリカではLD=学習障害児、または学習の仕方が違う子供)と言い、普通の授業方法では本来の能力を発揮できない子供のことであると考えられ、普通の授業方法ではない特別のプログラムを用意している。たとえぱ一つのことに五分以上集中できないADD(注意欠陥障害)の子供や、落ち着きがなく衝動的なADHD(注意欠陥多動性障害)の子供などである。読字障害/失読症(dyslexia)、意欲欠如(poor motivation)、書字障害などの子供も含まれる。

日本で登校拒否とか不登校といわれている生徒も多くはこのLDである。ひょっとするとアインシュタインのように知能が高すぎて普通の授業がもの足らずに、授業中一言も発しないのかもしれない。何らかの幼児体験がもとで外国語に対し拒否反応があり、外国語の授業のレポートを一枚も出そうとしないのかもしれない。視覚障害があり文字が逆さまに見えるために本が読めないのかもしれない。あるいは対人障害のため、人のいる所では注意力が散漫になり勉強に集中できないのかもしれない。だから不登校になっているのかもしれない。

アインシュタインも小学校では落ちこぼれだったという。歴史に名を残したヨーロッパの芸術家も、少年期は今で言うLDであった者が多い。要するに特異な分野に偏って才能が発達している生徒、つまり偏頗(へんぱ)的発育児は平均的な生徒を基準にすると、すべてLDということになる。しかし、そのような生徒こそ特異な分野で大変能力や独創性を発揮し、科学、文化、芸術などの発展に貢献する可能性を秘めているダイヤモンドの原石かもしれない。

たとえばアメリカの映画俳優のトム・クルーズや、インターネット金融取引のスター、チャールズ・シュワブには読字障害があったといわれている。また、キンコーズの創業者ポール・オーファラも小学校に入ってもABCすら読めない読字障害があり、そのため大学までずっとCスチューデント、つまり最低の劣等生だった。キンコーズを経営する今でも「文字は読めない」。その分「人を読める」ので名経営者となった。同じくシスコ・システムズ(コンピュータ関連会社としてマイクロソフトより創造的価値が高いといわれる高評価の会社)のCEOジョン・チェンバースも読字障害を持ちながらウエストバージニア大学の法学博士とMBAを取得している。そのためか、シスコ社では学生時代LDだった従業員が多い。

アメリカではLDの子供たちは特異な才能を持った子供として大切に扱われ、専門に受けいれるボーディングスクールが数多くある。この点で日本はアメリカより50年遅れている。よく考えてみれぱ、平均的に何でもできる子供(日本ではそれが優秀児とされ、「オールA」と称して評価されるが、平均的というのは、一つとして「抜群なものがない」ということでもある)ばかりでは、人類の歴史は発展しなかったであろう。

LDの子供の場合、その可能性を引き出すためには、専門家がほとんどマン・ツー・マンで指導に当たるなど、特別の教育環境が必要となる。

これらの学校では、そういう生徒たちは「精神的に傷つきやすく、知能レベルほ十分高いにもかかわらず、授業を受けるうえで、あるいは学校生活において諸種の問題を抱えている子供」と定義している。たとえば次のような子供である。

一、普通の授業に馴染まない子供
二、学校生活に馴染まない子供
三、注意力が著しく散漫な子供
四、些細な事に著しい興味を示す子供
五、教室でじっと座っていられない子供
六、じっと座っていても絶えず奇妙な体の動きをする子供
七、先生の言うことを聞くこと、あるいは先生の言うことに従うことを拒む子供
八、両親や教師、あるいは目上の者の指示に常に反する行動を取る子供
九、学校の与える教材に拒否反応を示す子供(たとえば宿題を提出できない)

日本で問題になっている学級崩壊の原因となっている子供に近い。また、不登校や「引きこもり」の生徒も該当しよう。こういった子供が、将来大学に入学を認められ、社会で活躍できる人間に成長していくためには、心理学的、教育学的に個別に分析、診察およびコンサルティングを行い、その結果に基づいて一人ひとりの症状に応じて用意される、高度に注意深く構築された積極的な指導プログラムが必要であるといわれている。これらLDのためのボーディングスクールから、ほぼ全員が普通の大学に進学していくのである。

LDの治療は早期発見、早期治療が原則とされている。そこで、具体的にどういったプログラムがグレンホルム・スクールでは行われているか、のぞいてみよう。グレンホルム・スクールでは5歳くらいから受け入れており、最年長は15歳前後である。治療機関は短い生徒で3ヶ月、長い生徒で1年を超える場合もある。

この学校では積極的な動機付けを重要な心理療法の柱とし、治療行為そのものは精神科医、心理学者、セラピストで構成されるチームによって、一人ひとりの生徒の症状に合わせて行われる。注目すべきは両親をカウンセリングの対象としていることだ。最も重要なことは、友好的でオープンかつ誠実な関係が、その子供とセラピスト、そして両親との間に築かれることであるとされ、キーパーソンとなるのはセラピストである。一対一のセラピーや、生活場面面接などを行い、そのほかにグループ・セラピーで、怒りをコントロールする方法や対人関係をうまく築く方法、さらに家族の間題など何らかの問題に直面した場合にそれを解決する方法、性的な間題、思春期特有の情緒不安定に起因するさまざまな問題への対処法を教えていく。

セラピーと並行して通常の授業も行われるが、グレード(成績)をつけないことが多い。それはこの種の学校としては当然の配慮であろう。

筆者は思う。日本人であってもあなたの子供が何らかの学習障害を持っている場合には、LDを専門とするボーディングスクール、あるいはLDプログラムを持っていいるボーディングスクールに行くのがよい。

アメリカではLDの子供を持つ親はまったく心配する必要はない、教育界が現在最も力を入れている分野がLDの治療的教育であるからである。こういったアメリカのLDに関する専門的な治療を受ければ立派に社会適応していけるのである。要は普通の子供とは勉強のスタイルが遵うだけである。ただ、その特異なスタイルに合わせた特別な治療的教育が必要となり、そのための教育環境に入れてやれば十分に社会に適応していけるということである。ボトムアップ教育では対応できない分野である。

ジョージア州アトランタにあるブランドンホール・スクールの学校紹介には、学習障害、注意欠陥障害、読字障害、意欲欠如といった特異な学習態様を持つ生徒が我々の得意とするところであると書かれている。この学校では、ほぼ一対一の教育環境を用意し、個別プログラムにより、健全かつ継続的な学習態度を身に付けさせ、最終的にはアメリカの各大学に百パーセント合格させることを目標としている。

LDやアスベルガー症候群(知的障害を伴わない発達障害、日本では高機能自閉症と同一視される場合が多い)の問題はアメリカの教育コンサルタントが今、最も力を注いでいる分野である。中でもNLDと呼ばれる非言語性学習障害を研究する分科会が多い。

NLDは、文字を声に出して読むことが困難な読字障害/失読症とは異なり、しゃべらせると完璧な発言や発表ができる。どちらかというと雄弁であり、人の話もよく理解でき、耳から聴いたものはよく記憶でき、文章もよく読解できる、など言語能力は優れているが、手で触れたりしてものを立体的、感覚的に把握することや視覚的な空間把握、距離把握(目で見たものの形状を覚えたり、絵を描いたり、はさみを使う、レゴを組み立てる、ボタンをかける、紐を結ぶ、自転車に乗るなど)はまったく不得意で、そのため幾何はまったくできないので数学の成績は下降し、生物などの教科書にふんだんに挿入されている絵や図形を覚えられない。また絵や図形を見ても考えが浮かんでこない。図形は細部にのみ目が行ってしまい全体把握ができない。文字を書いたり、レポートを書くときも、文字はメチャクチャで手書きでは人の読めるようなものは書けず、スペルは間違いだらけといった症状を呈する。行動が全体的にスローで、ホームワークなど要求されたことの提出は極めて怠慢である。

このようなNLDには読字障害とは違った治療法が要求される。アメリカではNLDに限らず、LD全体について、精神科医、教育コンサルタント、学校・社会全体が極めて積極的に取り組んでいる。日本では、アメリカのような取り組みはまったくなされていないと聞く。個性、独創性という宝の山を、問題児として切り捨て葬り去っている。重大なる杜会的損失ではないか。ボトムアップ教育しかない社会の限界である。毎年三万人もの自殺者を出す日本杜会(物差しが一つしかないワン・スケール・ソサイエティ。一つの物差しで短絡的に勝ち組と負け組を判定し、一生消えない烙印を押してしまう)の特異性と共通の根を持つ問題である。

◎アメリカのボーディングスクールでは6-8月の3ヶ月間が夏休みとなる。この夏休みの間も決して遊ばせてはくれない。授業と寮がないというだけであってホームワークがどっさり出るのだ。日本から初めてボーディングスクールに行く生徒にも、新学期からの授業に備えて読んでおくべき本のリストが送られてくる。たとえば単語力増強方法として、アメリカでよく使われているボキャブラリー・ビルディングの教本や、新学期からの入学が許されたその学年のアメリカ人生徒への読書課題として指定された本を1、2冊(といっても薄っぺらい本ではなく、7-800頁の本を休みの間に読破し、論点をまとめてレポートを提出することが要求されることが多い)などである。9月の新学期が始まっていきなり夏休み中に読書課題についての試験が行われることが多い。したがって散漫にだらだら読むようなわけにはいかない。

◎そして、ボーディングスクールの生徒の多くは夏休みに福祉施設やボランティア団体などの社会奉仕活動を行うことが多い。多くの生徒、特にソフォモア、ジュニアは100時間以上の奉仕活動を目標にする。

◎授業とホームワークは一体になっている
月曜日から土曜日まで学問系の学科の間に空欄のピリオドがある。このピリオドは、デイタイム・スタディホール(強制的自習時間、必ず机に向かって座っていなければならない)、社会奉仕、特別補習(授業についていけない生徒のためのもの)およびスポーツ系の科目に充てる。

◎ボーディングスクールでは、学問系の科目については、ホームワークはピリオドすなわち授業の延長として必ず課される。つまり授業+ホームワークが一体になっている。決して授業のみで終わりということはない。1ピリオドの授業につき1ピリオドの時間、すなわち45分程度要するホームワークが必ず出される。つまり、1日3-4時間のホームワークが必ず課されることになる。

◎ボーディングスクールでの歴史・社会科学教育には歴史、地理、心理学、政治、経済が含まれる。ウィリストン・ノーザンプトン・スクールの歴史・社会科学科主任であるピーター・ガン氏はこのように言っている。
「我々は生徒に歴史的に何が正しかったかということを教えようとはしない。むしろ事実をどのように調査するか、歴史的なものの見方がどのように発展してきたか、そしてその歴史的視野に立ってどのように事実を読み解いていくか、ということを教えようとする。我々教師は卒業生が過去を勉強することにより未来を理解し、かつ自らの未来を自ら形づくることができるよう期待するものである」

◎哲学、宗教、倫理、歴史学は企業経営とは無関係のように見えるが、じつは大いに関係ありである。企業経営は「金儲け」のように見えて、じつはそうではない。人間の経済活動、つまり人間の行動そのものなのである。とすれば人間の根本に対する深い理解、つまり何のために、誰のために「金儲け」をするのかという問いかけがないと、短期的には企業経営に成功しても、長期的には続かない。それは人間とは何か、人間の集合体である社会とは何かという根本的哲学なくしては、経営者が正しい歴史観に基づく大局的企業戦略、深い哲学的宗教的思考において、大局的企業倫理観、経営哲学を持てず、目先の計数にとらわれて、人間の集合体である社会、国家、国際社会、そして歴史の流れから結局は排除されていくことに気づかないからである。

◎哲学、宗教、倫理、歴史学は、万物の現象の体系的理解の学問である。このように言うと技術的創造と無関係のように見えるが、じつは大いに関係がある。応用技術的改革ならばいざ知らず、先駆的大発明は物事の体系的理解と深い思考力があってはじめて、ある日突然に訪れるものであり、目先の改良に追われるような技術者には訪れないのである。哲学、宗教、歴史学は科学の母である。筆者はこのような意味において、アメリカのボーディングスクールの哲学、倫理、宗教、歴史教育の充実はアメリカパワーの源泉であると主張するのである。

◎分厚い教科書
ボーディングスクールで使われる教科書は日本の教科書とは大違いである。どう違うかというと、まずその中に盛られている情報量の多さ。単純比較はできないが、日本の教科書を1とするとアメリカのそれは10に匹敵すると筆者は考える。

たとえばアニー・ライト・スクールで使っている生物の教科書だが、サイズはA4よりやや大きく、千ぺージを超える。持ち運ぶにはその重さに耐えなければならないほどの厚さである。分厚い電話帳一冊分と考えてもらえれぱほぼその分量がわかる。文字は小さく、カラー写真や図表がふんだんに取り入れられている。こうなるともはや生物学事典という様相を呈している。

日本の読者には、「こんなに分厚い事典のような教科書を使ってとても一年で終わるわけがない。かえって日本のように薄くてコンパクトにまとまった教科書のほうが全体をカバーするのに適切ではないか」と反論する方もいるかもしれないが、ボーディングスクールの教科書はあくまでも生徒の興味と理解を深めるための補助教材と位置づけられている。授業中はむしろディスカッション、問答方式で思考を深めることに向けられ、ホームワークの時間に指定された大量のぺージを読んでくることになる。したがって千ページぐらいの教科書は何ら問題にならないどころか、むしろ読み物として興味をかき立て、学問的な探究心がわいてくるように百科事典のように詳しく、写真入り、図入りの詳細な記述のある教科書のほうが望ましいという考えである。

物理の教科書も分厚く、理解を助けるために懇切丁寧なグラフ、図および説明がビッシリと加えられている。筆者が思うに、日本のように、ほぼ結論だけが簡潔に書かれている薄い教科書では、生徒がそれを読んでも学問的興味や知的好奇心を刺激するに足らず、ましてや物事を深く考えたり、専門的な知識を吸収するにはまったく不向きではなかろうか。アメリカのボーディングスクールの教科書は授業外の自習時間にかなり大量のページを読むことを前提としてつくられたものであるから、このように詳しく、図入り、写真入り、絵入りで解説された事典のようなものになっているのであろう。ボーディングスクールのキャンパスに行くと、まるで一週間の登山にでも行くようなリュックサックを背負った生徒があえぎあえぎ歩き回っているのをよく見かける。その中にはこのように分厚い教科書が3-4冊と入っているのである。

◎現実にこういう話がある。これは私が信頼しているある教育コンサルタントから直接聞いた話だ。ある非常に優秀な男子生徒で、彼は高1、高2、高3の成績は常にトップクラスの成績を収め、医学系のトップといわれているジョンズ・ホプキンス大学から入学内定通知をもらった。ところが、それで気が抜けてしまったのか、高四の後期の成績ががた落ちしたのである。Dが三つもついてしまった。驚くべきことにジョンズ・ホプキンス大学はその下がった成績を見て入学内定を取り消したのである。希望する大学から入学内定通知をもらったからといって、高校での残りの勉学に手を抜くというような生徒はキッパリと内定通知を取り消す。日本の大学入学試験制度ではけっして起こらないことである。日本では一回限りのぺーパー入学試験の成績が良くて合格すれば、高校三年の三学期の成績が極端に下がっても入学を取り消されることはない。しかしアメリカは違う。入学内定通知はあくまでも「あなたが残りの高校生活を当大学が期待する程度以上の成績で立派に修了し、内定通知を出した前提事実が当大学への入学の日まで崩れないことを条件とします」ということなのである。

◎携帯電話は所持自体キャンパス内では完全不許可となっているところが多い。ミドルスクール(ジュニア・ボーディングスクール)では携帯電話を禁止しているところがほとんどである。電話をかけるときには必ず各自の机に備え付けの電話を使わなくてはならないところが多い。料金計算のため通話記録をコンピュータですべてチェックする必要があるからである。電話交換機およびインターネットは、消灯時間以降はシャットアウトされる。シャットアウト時間中または留守中はボイスメールに切り替わる。

◎エピローグ~日本人としてボーディングスクールをどうとらえるべきか
日本の教育はボトムアップ教育としても後れを取っており、プルアップ教育は存在しない。教育が崩壊するときはその国の命運が尽きるときではないか。それは筆者がこの本のはじめに投げかけた命題でもある。

教育が崩壊したとき、その崩壊した教育から生まれてきた青少年や大人たちのメルトダウン現象(モラル崩壊)が見られる。大国の衰退というテーマを学問的に研究している京都大学の中西輝政教授によれば、世界の歴史上、大国というものが現れては消えて行くのが常であるという。たとえばローマ帝国、スペイン帝国、大英帝国などであるが、その衰退のときには必ずと言ってよいほど共通する特徴が現れるという。それは財政の危機、議会制度の荒廃、官僚の腐敗、社会的現象としてのブランド志向、グルメ志向、イベント志向(ローマでは奴隷と猛獣との闘いなどを見せて喜んでいた)、一都市への一極集中(ローマではすべての道はローマに通じるといわれ、何もかもがローマに集中した)、健康ブーム(人びとが明日への発展に興味を持てなくなり自分の身体に興味が向いていく現象)、そして教育の荒廃である。これらのすべてが現れればその国は衰退するという。日本の現状はどうか。すべてが現に現れている。中西教授によれば、このような過程をたどってすべての大国は衰退するのであるが、その衰退から立ち直った国が真の意味での先進指導国となり得るのであり、衰退から立ち直れなかった国は滅亡へと向かって行くのだという。

衰退から立ち直らんとするとき、どういう現象が起こったか。それは中西教授によれば、ドゴール時代のフランス、サッチャー時代のイギリスのように徹底した価値観、歴史観への根本的問いかけに基づく教育論議がまず国の上部組織である政治家の間でなされ、それが全国民に浸透していったのである。勤勉精神、高い倫理性、克已心、忍耐、そういった基本的なコンセプトを国民が取り戻すためにどうしたらよいかということをまず、政治家が哲学者や歴史学者からもう一度謙虚に学び、議論し、国民に問いかけるというプロセスが起こるというのである。カーター政権時代、アメリカ議会は、歴史学者であり『大国の興亡』の著者ポール・ケネディ氏を何度も招いてアメリカの教育改革をどうするかを諮問し、それがレーガン政権において、「ナショナルクライシス―アメリカの教育改革を目指して」という政策にまとめられた。そのためには真っ先に教育改革を政治家が語らなければならない。そういえばクリントンもゴアもブッシュもその演説で教育改革を真っ先に取り上げていた。この日本にとり今最も重要なことは、政治家が国民にこれでよいのかという意識改革を問いかける行為であり、コンセプトの転換、パラダイムシフトの語りかけなのである。

『(改訂版)アメリカのスーパーエリート教育』(石角完爾・著、ジャパンタイムズ)