『修身教授録』(1)

◎師弟関係(P.12)
師弟関係というものは、一種独特の関係であって、そこには何ら利害の打算というものがないわけです。仮に叱ったり叱られたりした場合でも、それは全然利害打算の観念を離れたものです。否、利害打算の観念を離れていればこそ、叱るべき時にはよく叱ることができ、また褒めるにも心から褒めることができるわけです。また、叱られる方としても、それをもっともとして受け取ることができ、また褒められたとしても、心からこれをうれしく感じるわけであります。

◎心の根本態度(P.12)
われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的に与えられた事柄については、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け入れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります。否、われわれは、かく自己に対して必然的に与えられた事柄については、ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩をすすめて、これを「天命」として謹んでお受けするということが大切だと思うのです。同時に、かくして初めてわれわれは、真に絶対的態度に立つことができると思うのです。

◎真に自己を生かすゆえん(P.13)
ここにこうして一年間を共に学ぶことになったことは、天の命として謹んでこれをお受けし、ひとり好悪を言わないのみか、これこそ真に自己を生かすゆえんとして、その最善を尽くすべきだと思うのであります。

今私の申したことは、広くは人生におけるわれわれの態度の上にも言い得ることであって、われわれはこの世において、わが身の上に起こる一切の事柄に対して、すべてこのような態度をもって臨むべきだと思うわけです。

ですから親が病気になったとか、あるいは家が破産して願望の上級学校へ行けなくなったとか、あるいはまた親が亡くなって、本校を終えることさえ困難になったとか、その外いかなる場合においても、大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として謹んでお受けをするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。ですからこの根本の一点に心の腰がすわらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです。

以上申した事柄は、これを他の言葉で申せば、われわれはすべてわが身に連なるもろもろの因縁を辱(かたじけな)く思って、これをおろそかにしてはならぬということです。

◎教育という織物(P.14)
教育という織物の場合には、教える方と学ぶ方と、この双方の気持ちがピッタリと合わなければ、とうてい立派な織物はできないからであります。

◎人生の根本目標(P.17)
われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり生まれ甲斐がある日々を送ること以外にはないと思うからです。

◎感謝の念(P.19)
われわれ人間は自分がここに人間として生をうけたことに対して、多少なりとも感謝の念の起こらない間は、真に人生を生きるものと言いがたいと思うのです。それはちょうど、たとえ食券は貰ったとしても、それと引き換えにパンの貰えることを知っていなければ、食券も単なる一片の紙片と違わないでしょう。

仏教には「人身うけがたし」というような言葉が昔から行われているのです。つまり昔の人たちは、自分が人間として生をこの世に受けたことに対して、衷心から感謝したものであります。

しかるに、自分がこの世の中へ人間として生まれて来たことに対して、何ら感謝の念がないということは、つまり自らの生活に対する真剣さが薄らいで来た何よりの証拠とも言えましょう。

◎己が仕事に専念すべし(P.22)
すべて人間の生活は、ある意味では皆みじめなり。自分のみと思うことなかれ。表を見、裏を見、愚に還ってひたすら己が仕事に専念すべし。

◎国を愛する(P.27)
私達がこの国を愛するということは、必ずしもこの日本という国が、優れた国だからということよりも、われわれにとっては、まったく抜きさしのできないほどの深い因縁があるからだと言うべきでしょう。

◎教育(P.29)
教育は、次の時代にわれわれに代わって、この国家をその双肩に担って、民族の使命を実現してくれるような、力強い国民を創り出すことの外ないのです。

◎教育者としての道(P.35)
まず人を教えるということは、実は教えるもの自身が、常に学ぶことを予想するわけであります。すなわち教師自身が、常に自ら求め学びつつあるでなければ、真に教えることはできないのであります。

◎教育の眼目(P.36)
教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということになれば、私達は教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります。というのも、一人の人間の魂を目覚めさすということは、実に至難中の至難事だからであります。眠っている相手の魂が動き出して、他日相手が「先生に教えを受けたればこそ今日の私があります」と、かつての日の教え子から言われるほどの教師になるということは、決して容易なことではないでしょう。

とくに小学校では、何分にも生徒がまだ幼いですから、なるほど一面からは、子どもたちはよく先生になつくとも言えましょう。が、同時にまた相手が幼少なために、その自覚は不十分ですから、小学教育が真に徹底するためには、教師が直接子どもたちから親しまれるだけでなくて、さらに父兄たちからも心から信頼を受けるようでなければ、教育の真の効果は期しがたいとも言えましょう。

同時にこの一点に思い至るならば、何人といえども、小学教師たることのいかに容易でないかを思い知らされることでしょう。それというのも、父兄たちの社会的階層は千差万別であって、それらの人々から安んじてわが子の教育を託するに足る人物だ、と信頼されるということが、いかに容易なことではないかはお分かりでしょう。

そこで、ではわれわれとして、それに対して一体どうしたらよいか、ということが問題でしょうが、私としては、それに対処し得る道はただ一つあるのみであって、それは何かと言うと、人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬということであります。かくしてここに人を教える道は、一転して、自ら学ぶ果てしのない一道となるわけであります。

かくしてわれわれは、幼い子どもたちを教えて、その魂を目覚ますという重責につく以上、何よりも大切なことは、生涯を貫いてひたすら道を求めて、そこに人生の意義を見出すのでなければならぬでしょう。

◎四十以後(P.43)
思うに諸君たちが、将来社会に出て真に働くのは、まず四十代から五十代へかけてだと言ってよいでしょう。すなわち諸君らの活動が、諸君の周囲に波紋をえがいて、多少とも国家社会のお役に立つのは、どうしてもまず四十以後のことと言ってよいでしょう。同時にまたこの事からして、われわれの心得ねばならぬ事柄は、それ故に人間は四十までは、もっぱら修行時代と心得ねばならぬということです。

現に山登りでも、山頂まではすべてが登り道です。同様に人間も、四十歳まではいわゆる潜行密用であって、すなわち地に潜んで自己を磨くことに専念することが大切です。ですから仮にそれ以前に職についたとしても、本来はその資格がないと考えねばならぬというわけです。

◎どんな花火が出るか(P.44)
この二十歳から四十歳までの二十年間の準備のいかんが、その人の後半生の活動を左右すると言ってよいでしょう。それはいわば花火の玉を作るようなもので、どんな花火が出るかは、まったくその準備期間中の努力のいかんによって決まることです。かくして四十代と五十代という、人間の仕上げ期の活動は、それまでの前半生において準備したところを、国家社会に貢献すべき時期であり、したがって四十歳までの準備が手薄ですと、四十歳以後六十までの活動も、勢、薄弱とならざるを得ないわけです。

◎生命の溢れた授業(P.47)
いやしくも教師たる以上、通り一遍の紋切型な授業ではなく、その日その日に、自己の感得した所を中心として、常に生命の溢れた授業を為さむと心掛くべきなり。

◎大学の道(P.49)
大学の道とは、一体いかなるものを言うのでしょうか。これは、諸君らもすでに一応は心得ていられるように、わが身を修めることを中心としつつ、ついには天下国家をも治めるに至る人間の歩みについていうのです。してみると孔子はすでに十五歳のお若さで、ご自身の一生を見通して、修養の第一歩を踏み出されたわけであります。すなわち十五歳の若さをもって、すでに自分の生涯の道を「修己治人」の大道にありとせられたわけであります。

したがってここに志学というのは、この自分という一箇の生命を、七十年の生涯にかけて練りに練り、磨きにみがいていって、ついには天下国家をも、道によって治めるところまでいかずんば已まぬという一大決心だと致しますと、これ実に容易に読み過ごせないこととなるわけです。

◎感激(P.50)
人間というものは、単に受身の状態で生じた感激というものは、決して長続きのしないものだからであります。ところが長続きしないものは決して真の力となるものではありません。

◎現在の学校教育(P.53)
ところがどうも現在の学校教育では、学問の根本眼目が、力強く示されていない嫌いがあるのです。それ故幾年どころか、十幾年という永い間学校教育を受けても、人間に真の力強さが出て来ないのです。

すなわちわが身自身を修めることによって、多少なりとも国家社会のために、貢献するような人生を送らずにはおかぬという志を打ち立てて、それを生涯かけて、必ず達成するというような人間をつくるという点が、どうも現在の学校教育には乏しいように思うのです。しかしそれというのも、結局は今日、学校教師その人が、自ら真に志を懐くことなく、したがって教育と言えば、ただ教科書を型通りに教える機械のようなものになっているところに、その根本原因があると言うべきでしょう。

◎何のために学問修養をすることが必要か(P.56)
ではわれわれは、一体何のために学問修養をすることが必要かというに、これを一口で言えば、結局は「人となる道」、すなわち人間になる道を明らかにするためであり、さらに具体的に言えば、「日本国民としての道」を明らかに把握するためだとも言えましょう。またこれを自分という側から申せば、自分が天からうけた本性を、十分に実現する途を見出すためだとも言えましょう。鉱物や鉱石もそのまま地中に埋もれていたんでは、物の用に立たないように、今諸君らにしても、たとえその素質や才能は豊かだとしても、諸君たちが真に学問修養によって自己を練磨しようとしない限り、その才能も結局は朽ち果てる外ないでしょう。

◎導きの光(P.58)
そもそも人間界のことというものは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していったならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、その導きの光となるはずであります。

◎眼光(P.59)
なるほどその人が直接に受け持っているのは、わずか四、五十人の幼童であるとはいえ、その眼は全国民教育界に向かって放たれ、常にそれを背景として、わが受け持ち学級が見えてくることでしょう。否、諸君の眼光は、ひとり国民教育界を見ているだけでは、実はまだ足りないのであって、さらにこの日本国そのものの動きが、見えているのでなければならぬでしょう。否、それでも、ほんとうはまだ足りないのであって、諸君はさらに眼を上げてアジアの形勢を見、さらには世界の動向をも大観して放たず、かくして常に世界におけるわが国の位置を見、近くはアジアにおけるわが国の使命に想いを馳せつつ、常に国民教育者が国家の運命に対して、いかなる角度から貢献し得るかを深省せねばならぬでしょう。

◎読書(P.63)
読書はわれわれの生活中、最も重要なるものの一つであり、ある意味では、人間生活は読書がその半ばを占むべきだとさえ言えましょう。すなわちわれわれの人間生活は、その半ばはこれを読書に費やし、他の半分は、かくして知り得たところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えましょう。

いやしくも真に大志を抱く限り、そしてそれを実現しようとする以上、何よりもまず偉人や先哲の歩まれた足跡と、そこにこもる思想信念のほどを窺わざるを得ないでしょう。すなわち自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の跡を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。ですから真に志を抱く人は、昔から分陰を惜しんで書物をむさぼり読んだものであり、否、読まずにはおれなかったのであります。

したがってかように考えて来ますと、読書などというものは、元来ひとから奨められるべき性質のものでないとも言えましょう。つまり人から奨められねば読まぬという程度の人間は、奨めてみたとて、結局たいしたことはないからです。

とにかく先にも申すように、読書はわれわれ人間にとっては心の養分ですから、一日読書を廃したら、それだけ真の自己はへたばるものと思わねばなりません。そこで諸君は、差し当たってまず「一日読まざれば一日衰える」と覚悟されるがよいでしょう。

◎偉大な実践家(P.66)
偉大な実践家というものは、一般に大なる読書家であり、さらには著述をもなし得るていの人が多いと言えるわけです。実践家の読書は、大観の見識を養うための活読、心読であって、その点、実践家の読書の方が自在だとも言えましょう。

◎人を知る標準(P.70)
人を知る標準としては、第一には、それがいかなる人を師匠としているか、ということであり、第二には、その人がいかなることをもって、自分の一生の目標としているかということであり、第三には、その人が今日までいかなる事をして来たかということ、すなわちその人の今日までの経歴であります。そして第四には、その人の愛読書がいかなるものかということであり、そして最後がその人の友人いかんということであります。大よそ以上五つの点を調べたならば、その人がいかなる人間であり、将来いかなる方向に向かって進むかということも、大体の見当はつくと言えましょう。

◎真の道徳修養(P.82)
真の道徳修養というものは、最もたくましい人間になることだと言ってもよいでしょう。すなわちいかなる艱難辛苦に遭おうとも、充容として人たる道を踏み外さないばかりか、この人生を、力強く生きぬいていけるような人間になることでしょう。

◎死後にその名が残るということ(P.88)
死後にその名が残るということは、その人の精神が残るということです。では一体どういう人が死後にもその名が残るかといいますと、生前国のために尽くす心が深くて、死んでも死に切れないという思いに、その一生を送った人でしょう。すなわち、その人の国をおもい世をおもうその思いの深さが、名という形をかぶって、死後にまで生きのびるわけです。

◎人生の価値(P.91)
人生の価値というものは、その意義を認めることの深さに応じて現れてくるものであります。したがって人間の生涯を通じて実現せられる価値は、その人が人生における自分の使命の意義を、いかほど深く自覚して生きるか否かに比例するとも言えましょう。

したがって人生の意義は、少青年の時におけるその人の志の立て方のいかんに比例すると言ってもよいわけです。すなわち人間の価値は、その人がこの人生の無限なる意味を、どれだけ深く自覚し、またそれをどれほど早くから、気づくか否かによって定まるとも言えましょう。

これ古来わが国の教育において、「立志」の問題が最も重視せられたゆえんであって、極言すれば教育の意義は、この立志の一事に極まると言ってもよいほどです。故にまた真に志が立つならば、ある意味では、もはやしいて教え込む必要はないとさえ言えましょう。というのも真に志が立ったら、自分に必要な一切の知識は、自ら求めて止まないからであります。

このように考えて来ますと、一つの国家においても、その成員たる一人びとりの国民が、いかほど深く国家民族の使命を自覚しているか否かによって、その国家の運命に重大な相違が生ずると言えるわけであって、これは何人にも明らかな道理であります。そしてそうした立場からは、一人の農夫、一人の職工に至るまでが、それぞれ民族の使命を自覚して、自分のなすところが、いかなる意味において、国家の大使命に貢献し得るかを自覚するに至ってその国家は、初めて真正な国家になると言えましょう。

したがって問題は、結局、個人としては国家民族の使命に対して、自分は「いかなる角度」からこれを分担するかを、自覚することに外ならぬと言えましょう。

◎真実の生活(P.95)
人間というものは、普通には、すべて現在より一段上の地位に上りたいと思うものであります。たとえば大臣になった以上は、もうそれで満足しているかと思えば、さらに総理大臣になりたいと思い、大将になったら、もうその上の望みはないかと思えば、さらに元帥になることを望むというぐあいです。一段でも自分より上の段階に登ることを願うのが、人情の常と言えましょう。

しかしながら、ここに一つ考えてみなければならぬことは、かように人々が、一歩でも社会的に上の地位につきたいとのみ考えていた場合、この世の中は一体どうなるかということです。同時にそこからしてこのような態度が、果たして人間の真実の生き方であるかどうかという点についても、お互いに深く考えてみなければならぬものがあるかと思うのです。

◎真の読書(P.107)
真の読書というものは、自己の内心の已むにやまれぬ要求から、ちょうど飢えたものが食を求め、渇した者が水を求めるようであってこそ、初めてその書物の価値を充分に吸収することができるのであって、もしそうでなくて、研究発表だとか、あるいは講演に行かねばならなくなったからなどといって、急にあちこちと人に聞きまわって読んだような本からは、同じ一冊の本を読んでも、その得るところは半分、否、三分の一にも及ばないでしょう。

◎人間の持つ世界の広さ深さ(P.107)
一人の人間の持つ世界の広さ深さは、要するにその人の読書の広さと深さに、比例すると言ってよいでしょう。

すなわち諸君が将来何らかの事に当たって、必要の生じた場合、少なくともそれを処理する立場は、自分がかつて読んだ書物の中に、その示唆の求められる場合が少なくないでしょう。つまりかつての日、内心の要求に駆られて読んだ書物の中から、現在の自分の必要に対して、解決へのヒントが浮かび上がってくるわけです。

◎真の哲学(P.109)
真に一つの言葉を解し得たと言うは、自分がそれを駆使するに至れる時なり。されば哲学上難解なる術語あるとも、そのままにして進みゆき、その用例に多く接することによって、自ら了悟するの期をまつべし。真の哲学は、哲学辞典などをひもとくことによって解し得るほどに、簡単なものにあらず。

『森信三 修身教授録』(致知出版社)